Re: 揚子江のアメリカ海軍砲艦オアフ号
投稿者: asia1867 投稿日時: 2007/02/22 01:43 投稿番号: [16559 / 41162]
>城門陥落から二日後の十二月十五日、南京を離れる特派員に利用してもらうため、その日ペイツは彼らに「レポート」を用意していた。十二月十五日、南京を離れた特派員とは、『シカゴ・デイリーニューズ』のスティール、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディンなど五名であった。彼らはアメリカ海軍の砲艦オアフ号に乗り、通信手段のなくなった南京から上海の共同租界へと向かった。オアフ号が南京を離れるや否や、次の記事をステイールが発信した。それが十二月十五日(アメリカ時間)の『シカゴ・デイリーニューズ』
に掲載されたのである
なるほど、南京虐殺物語の下書きは、ペイツなる者の「レポート」だったのか。
で、英米海軍は、情報収集を全くしなかったのか?
独逸の支那軍軍事顧問団も、英米軍同様に、情報収集をしなかったのか?
東京朝日新聞の昭和12年(1937年)12月10日付けの夕刊一面の記事だそうだ。
http://tsushima.homeip.net/ore/rhs/asahi_s12-12-10.html12/29
日本の上海軍は、敵の遺棄死体は8万4000人だったと発表
張治中、唐生智、いずれも中共の手先。
南京事件に詳しい
黄泉の国
なら当然知っている事だが、
チェコ銃は、どの様な経緯で支那軍の装備となったのか?
これは メッセージ 16528 (yominokuni56 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/16559.html