日本敗戦直後の朝鮮 4
投稿者: superdreadnote 投稿日時: 2007/01/10 21:47 投稿番号: [45541 / 230347]
日本へ引き揚げる話が始まった。デマが盛んになった。日を追って内容は支離滅裂になったが、どれも本当に思えた。
「どこどこで、朝鮮人が日本人の家を奪い、皆殺しにした」とか、「今、荷物をまとめて仁川に行けば朝鮮人の船で内地に帰れる。お金は掛かるが、早い方が良い」「進駐軍が来る」「ロシヤ兵が来る」「明日、朝鮮人の大暴動が起きる」「東拓の人は殺される」。いろんなデマが広がって混乱に輪を掛ける。
オモニが来た。表面は以前と変わらないが、話すことは全く違っていた。「内地に引き揚げるのだし、こんな荷物は送れないでしょう。「下さい」ではなく「呉れ」なのだ。至極、当然の様に言う。日本が敗戦によって支配力を失ったのだからこのくらいの我慢はまだ良い方だと、父は覚悟しているようだった。
父の会社「東拓」は解体されたが社員が事後処理の為まだ活動していた。手配が付いたらしく、大きいトラックがきて荷物を積んだ。家具類はかさが大きく運べない。蒲団類、衣類、大量のアルバム。我が家の大切な記録だったが差し当たりの生活に困らない程の荷物と一緒に蒲団袋につめて送った。だが、これらの荷物は、何一つ内地に届かなかった。
近所の人達も次々に挨拶に来ては内地に帰って行く日が続いた。北緯三十八度線が南北朝鮮の分断線になり北はロシアの支配を受けることを知った。
すでに京城の街には進駐軍のアメリカ兵が来ていたし、その下で朝鮮人のボーイスカウトが治安に当たっていたようだ。見事という他無い。
八、ひきあげ
いよいよ引き揚げの日になった。もう釜山まで列車で行くしかなく、列車も北朝鮮以北の引き揚げ者で一杯ということだった。列車の順番待ちのために、京城の学校に作った難民収容所みたいな施設に入った。北からの人が大半だった。皆、着の身着のままで荷物などほとんど持っていない。
その人達に合流するのだから荷物は極力少なくしなければならない。淳ちゃんは祖母に背負われ、滋ちゃんは母に手を引かれ、母はリュックサック、泰ちゃんと私は一丁前にリュックを背負い父は登山姿で大きいリュックを背負った。食事は共同炊事場のような所で炊き出され配られた。今流でいえば難民なのだ。途中で子供を既に亡くした人もあって、口数は少なく、暗い暗い顔ばかり。私達も笑いは忘れている。
移動の指令を受けた。一行は二、三列になって徒歩で龍山駅に向かった。
この駅は京城駅の南方三キロ程の所にある貨物駅だった。埃の立つ道を長い行列が続いた。もう秋。プラタナスの並木も黄色だった。
駅で有蓋車、無蓋車が混合した貨物列車が待っていた。係員が順番にまるで豚を積むように人間を積んでいった。
夕方になって列車が動き出した。換気のためか有蓋車も扉は開け放ってあり木で柵がしてあった。漢江の鉄橋を渡った。京城との別れであった。「夜と霧」の人達も、このようにしてアウシエビッツに送られたのだろう。状況は何一つ違わない。
夜明け、朝霧のなかに列車が止まった。人の声が下から聞こえてくる。林檎を売りの声だった。大邱(たいきゅう)である。紅い小さな林檎を籠に入れ、見せびらかして行く。林檎すら買えない人ばかりなのに。誰も列車からは降りない。いつ発車するか判らない。父は淳ちゃんのために二、三個買った。皆の前では幼子に与える以外食べようが無いのだ。大邱までは京城から遠くはない。そこまでで朝になるくらいだから、少し行っては止まりしたのだろう。そして遂に釜山に着いた。
「難民」は又、収容所に入る。釜山の高台の女学校で運動場までテントを張って人が溢れていた。総て引揚げ船を待っているのだった。順番が来て船で発つ人と、北から列車で着く人と、いたちごっこの様に人が出入りするが、人が増えて行く。
その収容所には、かなり長く滞在した。ようやく船の順番が来た。もう十月も半ばだった。
これによると、ソウルで朝鮮人の襲撃を受け、暴行されたり、財産を
強奪されたり、レイプされたりした話の記述はありませんね。
交番が襲撃されたとも書いてない。
また汽車が駅に着いても朝鮮人が乗り込んで来て、荷物を強奪したとも
書いてない。それどころかリンゴ売りが来ている。
釜山でもちゃんと荷物を持っているし、大勢の日本人が居るのに、
朝鮮人の襲撃を受けて、怪我をした人もいるようではない。
「どこどこで、朝鮮人が日本人の家を奪い、皆殺しにした」とか、「今、荷物をまとめて仁川に行けば朝鮮人の船で内地に帰れる。お金は掛かるが、早い方が良い」「進駐軍が来る」「ロシヤ兵が来る」「明日、朝鮮人の大暴動が起きる」「東拓の人は殺される」。いろんなデマが広がって混乱に輪を掛ける。
オモニが来た。表面は以前と変わらないが、話すことは全く違っていた。「内地に引き揚げるのだし、こんな荷物は送れないでしょう。「下さい」ではなく「呉れ」なのだ。至極、当然の様に言う。日本が敗戦によって支配力を失ったのだからこのくらいの我慢はまだ良い方だと、父は覚悟しているようだった。
父の会社「東拓」は解体されたが社員が事後処理の為まだ活動していた。手配が付いたらしく、大きいトラックがきて荷物を積んだ。家具類はかさが大きく運べない。蒲団類、衣類、大量のアルバム。我が家の大切な記録だったが差し当たりの生活に困らない程の荷物と一緒に蒲団袋につめて送った。だが、これらの荷物は、何一つ内地に届かなかった。
近所の人達も次々に挨拶に来ては内地に帰って行く日が続いた。北緯三十八度線が南北朝鮮の分断線になり北はロシアの支配を受けることを知った。
すでに京城の街には進駐軍のアメリカ兵が来ていたし、その下で朝鮮人のボーイスカウトが治安に当たっていたようだ。見事という他無い。
八、ひきあげ
いよいよ引き揚げの日になった。もう釜山まで列車で行くしかなく、列車も北朝鮮以北の引き揚げ者で一杯ということだった。列車の順番待ちのために、京城の学校に作った難民収容所みたいな施設に入った。北からの人が大半だった。皆、着の身着のままで荷物などほとんど持っていない。
その人達に合流するのだから荷物は極力少なくしなければならない。淳ちゃんは祖母に背負われ、滋ちゃんは母に手を引かれ、母はリュックサック、泰ちゃんと私は一丁前にリュックを背負い父は登山姿で大きいリュックを背負った。食事は共同炊事場のような所で炊き出され配られた。今流でいえば難民なのだ。途中で子供を既に亡くした人もあって、口数は少なく、暗い暗い顔ばかり。私達も笑いは忘れている。
移動の指令を受けた。一行は二、三列になって徒歩で龍山駅に向かった。
この駅は京城駅の南方三キロ程の所にある貨物駅だった。埃の立つ道を長い行列が続いた。もう秋。プラタナスの並木も黄色だった。
駅で有蓋車、無蓋車が混合した貨物列車が待っていた。係員が順番にまるで豚を積むように人間を積んでいった。
夕方になって列車が動き出した。換気のためか有蓋車も扉は開け放ってあり木で柵がしてあった。漢江の鉄橋を渡った。京城との別れであった。「夜と霧」の人達も、このようにしてアウシエビッツに送られたのだろう。状況は何一つ違わない。
夜明け、朝霧のなかに列車が止まった。人の声が下から聞こえてくる。林檎を売りの声だった。大邱(たいきゅう)である。紅い小さな林檎を籠に入れ、見せびらかして行く。林檎すら買えない人ばかりなのに。誰も列車からは降りない。いつ発車するか判らない。父は淳ちゃんのために二、三個買った。皆の前では幼子に与える以外食べようが無いのだ。大邱までは京城から遠くはない。そこまでで朝になるくらいだから、少し行っては止まりしたのだろう。そして遂に釜山に着いた。
「難民」は又、収容所に入る。釜山の高台の女学校で運動場までテントを張って人が溢れていた。総て引揚げ船を待っているのだった。順番が来て船で発つ人と、北から列車で着く人と、いたちごっこの様に人が出入りするが、人が増えて行く。
その収容所には、かなり長く滞在した。ようやく船の順番が来た。もう十月も半ばだった。
これによると、ソウルで朝鮮人の襲撃を受け、暴行されたり、財産を
強奪されたり、レイプされたりした話の記述はありませんね。
交番が襲撃されたとも書いてない。
また汽車が駅に着いても朝鮮人が乗り込んで来て、荷物を強奪したとも
書いてない。それどころかリンゴ売りが来ている。
釜山でもちゃんと荷物を持っているし、大勢の日本人が居るのに、
朝鮮人の襲撃を受けて、怪我をした人もいるようではない。
これは メッセージ 45533 (superdreadnote さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/45541.html