参政権問題小史(GHQ関連2)
投稿者: uumin3 投稿日時: 2002/10/18 13:06 投稿番号: [1947 / 230347]
日本国民と規定されてから半年も経たない一九四七年五月二日に、GHQと日本政府は外国人登録令(外
登令)を制定し、それによって朝鮮人を当分の間「外国人」と見なした。治安管理を目的とした外登令は、
登録、住所、職場の変更届け、外国人登録証明書の携帯などを強要し、その規定に反した者に対しては強制
送還処分を命じた。強制送還罰は在日朝鮮人の「日本国民」としての居住権を根底から否定するものであった。
GHQの民間情報教育局(CIE)は、一九四七年一月と翌四八年一月の二回、文部省に対し、新教育基
本法と学校教育法の公布・実施にあたって、朝鮮人生徒を日本人学校に就学させる指示を出した。それに従
って、四八年三月〜四月、文部省は朝連などの説得に働き、その指示に応じなかった民族学校に対して閉鎖
命令を発した
一九四六年一一月には、GHQは新しい基本方針として、朝鮮における新国家が樹立したら国籍問題も含
めて在日朝鮮人の法的地位を決定することを公約していた。しかし、共和国はともかくとして、韓国が成立
しても、GHQはその約束を無視し、在日朝鮮人に韓国籍を与えなかった。朝鮮人たちを管理しやすい形で、
時によっては日本国民(税金、義務教育など)、時によっては外国人(外国人登録、参政権の停止)として
ご都合主義的な扱いを存続したのである。彼らの市民的、政治的権利を強化せず、その法的地位の解決を占
領後の日韓会談に委ねるのが、GHQの基本的な考え方であった
一九四九年八月、GHQの民政局(GS)は朝連を解散するよう日本法務府(現法務省)に命じた。九月、
法務府は、同年四月に制定された団体等規正令を発動し、占領政策に対する「反抗」「反対」「暴力主義的
活動」を理由に朝連を解散させ、朝連幹部を追放し、その資産を没収した。暴力的活動の実例として挙げら
れたのは、首相官邸前のデモ事件、「日本教育諸法令に違反する」阪神民族教育事件、仙台と山口における
国旗掲揚事件、福島県平市で起こった「平事件」などであった。そして一〇月には、文部省は法務府と協議
した上で朝連系民族学校を閉校させた。
※ なにもかもGHQがということもありませんが、外登令の制定は「治安」目的だったわけで、このこと
からGHQの意思を低く見ることはできないでしょう。1948年3月以降のいわゆる民族教育闘争は、まさに占
領軍対在日朝鮮人の闘争だったと思われます。
1947年5月、外国人登録令により在日韓国・朝鮮人を外国人としてみなす。
1948年8月、9月、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の両国が国家樹立
1949年10月7日、駐日大韓民国代表部はマッカーサー連合国司令官に「在日韓国人の法的地位に関する見解」
を伝え、在日大韓民国国民の国籍は母国の韓国であり、日本国籍は完全に離脱したと宣言
※ 上記見解は、あくまでも当時の韓国政府の主張であり、直接日本政府に働きかけたものではないわけで
すが、これに対して下記の通達がなされたという経緯があったのでしょう。
1949年11月、最高裁事務総長が「戦前から日本居住の在日韓国朝鮮人は講和条約締結まで日本国籍を有す」
という見解を通達。
1954年11月8日に、平壌放送で南日外相の放送があり、この放送の中ではっきりと、在日朝鮮人は朝鮮民主
主義人民共和国の公民であると宣言されます。これがのちに、朝鮮総連の第一綱領になります。
(姜在彦『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター出版部、1989年)
そして1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を取り戻すわけですが、この際に
あたって在日の朝鮮半島出身者は、日本国籍を捨て韓国籍を選ぶのか、北朝鮮籍にするのかで激しく対立し
ていたと言われます。
ただし、参政権付与の論陣をはる方々は口をそろえて「1952年4月19日に発せられた法務府民事局長通達
によって、旧植民地出身者の日本国籍を剥奪されたのだ」ということしかおっしゃらないのです…
登令)を制定し、それによって朝鮮人を当分の間「外国人」と見なした。治安管理を目的とした外登令は、
登録、住所、職場の変更届け、外国人登録証明書の携帯などを強要し、その規定に反した者に対しては強制
送還処分を命じた。強制送還罰は在日朝鮮人の「日本国民」としての居住権を根底から否定するものであった。
GHQの民間情報教育局(CIE)は、一九四七年一月と翌四八年一月の二回、文部省に対し、新教育基
本法と学校教育法の公布・実施にあたって、朝鮮人生徒を日本人学校に就学させる指示を出した。それに従
って、四八年三月〜四月、文部省は朝連などの説得に働き、その指示に応じなかった民族学校に対して閉鎖
命令を発した
一九四六年一一月には、GHQは新しい基本方針として、朝鮮における新国家が樹立したら国籍問題も含
めて在日朝鮮人の法的地位を決定することを公約していた。しかし、共和国はともかくとして、韓国が成立
しても、GHQはその約束を無視し、在日朝鮮人に韓国籍を与えなかった。朝鮮人たちを管理しやすい形で、
時によっては日本国民(税金、義務教育など)、時によっては外国人(外国人登録、参政権の停止)として
ご都合主義的な扱いを存続したのである。彼らの市民的、政治的権利を強化せず、その法的地位の解決を占
領後の日韓会談に委ねるのが、GHQの基本的な考え方であった
一九四九年八月、GHQの民政局(GS)は朝連を解散するよう日本法務府(現法務省)に命じた。九月、
法務府は、同年四月に制定された団体等規正令を発動し、占領政策に対する「反抗」「反対」「暴力主義的
活動」を理由に朝連を解散させ、朝連幹部を追放し、その資産を没収した。暴力的活動の実例として挙げら
れたのは、首相官邸前のデモ事件、「日本教育諸法令に違反する」阪神民族教育事件、仙台と山口における
国旗掲揚事件、福島県平市で起こった「平事件」などであった。そして一〇月には、文部省は法務府と協議
した上で朝連系民族学校を閉校させた。
※ なにもかもGHQがということもありませんが、外登令の制定は「治安」目的だったわけで、このこと
からGHQの意思を低く見ることはできないでしょう。1948年3月以降のいわゆる民族教育闘争は、まさに占
領軍対在日朝鮮人の闘争だったと思われます。
1947年5月、外国人登録令により在日韓国・朝鮮人を外国人としてみなす。
1948年8月、9月、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の両国が国家樹立
1949年10月7日、駐日大韓民国代表部はマッカーサー連合国司令官に「在日韓国人の法的地位に関する見解」
を伝え、在日大韓民国国民の国籍は母国の韓国であり、日本国籍は完全に離脱したと宣言
※ 上記見解は、あくまでも当時の韓国政府の主張であり、直接日本政府に働きかけたものではないわけで
すが、これに対して下記の通達がなされたという経緯があったのでしょう。
1949年11月、最高裁事務総長が「戦前から日本居住の在日韓国朝鮮人は講和条約締結まで日本国籍を有す」
という見解を通達。
1954年11月8日に、平壌放送で南日外相の放送があり、この放送の中ではっきりと、在日朝鮮人は朝鮮民主
主義人民共和国の公民であると宣言されます。これがのちに、朝鮮総連の第一綱領になります。
(姜在彦『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター出版部、1989年)
そして1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を取り戻すわけですが、この際に
あたって在日の朝鮮半島出身者は、日本国籍を捨て韓国籍を選ぶのか、北朝鮮籍にするのかで激しく対立し
ていたと言われます。
ただし、参政権付与の論陣をはる方々は口をそろえて「1952年4月19日に発せられた法務府民事局長通達
によって、旧植民地出身者の日本国籍を剥奪されたのだ」ということしかおっしゃらないのです…
これは メッセージ 1946 (uumin3 さん)への返信です.
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