Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/10/19 23:29 投稿番号: [156814 / 230347]
>>史書に書いてある事を言っている。この朝貢の国は何処にある国だとね。
>そう。だから地図も海図も何もない時代、言う事がアバウトならば、「遼東半島基点説」なんか、成立する余地なしじゃないですか?しかも御自分で言った様に、史書は後年にまとめたものですよ?
基になる資料があるからね。
>>何回も、遼東百済は三代麻余の時代には滅亡している。と書いているがね
>はて、『遼東百済』なんて国、ありました?文献は扶余伝だったんじゃ?
その子依慮(イロ)が六歳で王に立ったのは、どこの国で?
前投稿で書いてある。
>>仇台と公孫度は何回も戦っている
>初耳です。ソースお願いします。
後漢書扶余伝
順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人寇玄菟、玄菟太守公孫域撃破之、斬首千餘級。至靈帝熹平三年、復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟、獻帝時、其王求屬遼東云。
永康元年=167年、王夫台=仇台の誤記
>>仇台の生きた時代は都尉が太守と同じ意味。地方の王様という事だな
>『都尉』なら、ね。単なる『尉』だから、せいぜい軍の中隊長クラスでしょう。
それとやっぱり、老い先短いジジイに嫁をやるのじゃあ、和睦の材料としては弱いなぁ。
『後漢書』
建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光武厚荅報之、於是使命歳通。至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏民、後復歸附。永寧元年、乃遣嗣子尉仇台(印)〔詣〕闕貢獻、天子賜尉仇台印綬金綵。
都尉でも尉でも王ですな。
>>四代依慮は西晋の庇護を受け、火列国(払涅靺鞨とも言う、現:黒龍省)
に扶余を再興している
>>またえらく遠くに?周り敵だらけだろうに?旧領なら分かりますが?で、
>この依慮王ですが、№156612で私が出した人物ですか?
西晋のとりなしで高句麗の領地を割譲してもらってるから致し方ないね。三代麻余が高句麗の血縁者(妻側)だった可能性がある。
>太康六年(285年)、慕容■(ぼようかい、“かい”は「まだれ」に「鬼」)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。
>翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を派遣し、慕容■は皇軍と
戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った(『晋書』)扶余、弱いですねぇ(苦笑) 公孫度、同盟して役に立ったんだろうか?
依慮の時代には公孫氏は存在しない。頭がワープしてるのかね?(爆)
>>『帯方』が朝鮮半島にあったと思ってるのかね?(爆)
>思ってますよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1
ちなみに、後年百済第27代 威徳王」(在位554〜598年)は、北斉(隋のひとつ前)に使節を送り『使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王』という官位を授かった(570年)そうですが?どうせペーパーの軍権ですが、これを「遼東半島まで」と考えちゃ、いくらなんでも欲張り過ぎでしょう(笑)そして中華の認識も、『帯方郡=朝鮮半島中西部』ですけど?
貴方のいう帯方はずーと後年の話ね。
今話してるのは、卑弥呼の生きた時代の話。
で、貴方の論だと高句麗と馬韓の間に楽浪郡も帯方郡もある事になるが、こんなボケ論を展開して後悔しないのかね?
貴方のお好きなウィキでも、こちらには書かれていないがね?(猛爆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
>そう。だから地図も海図も何もない時代、言う事がアバウトならば、「遼東半島基点説」なんか、成立する余地なしじゃないですか?しかも御自分で言った様に、史書は後年にまとめたものですよ?
基になる資料があるからね。
>>何回も、遼東百済は三代麻余の時代には滅亡している。と書いているがね
>はて、『遼東百済』なんて国、ありました?文献は扶余伝だったんじゃ?
その子依慮(イロ)が六歳で王に立ったのは、どこの国で?
前投稿で書いてある。
>>仇台と公孫度は何回も戦っている
>初耳です。ソースお願いします。
後漢書扶余伝
順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人寇玄菟、玄菟太守公孫域撃破之、斬首千餘級。至靈帝熹平三年、復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟、獻帝時、其王求屬遼東云。
永康元年=167年、王夫台=仇台の誤記
>>仇台の生きた時代は都尉が太守と同じ意味。地方の王様という事だな
>『都尉』なら、ね。単なる『尉』だから、せいぜい軍の中隊長クラスでしょう。
それとやっぱり、老い先短いジジイに嫁をやるのじゃあ、和睦の材料としては弱いなぁ。
『後漢書』
建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光武厚荅報之、於是使命歳通。至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏民、後復歸附。永寧元年、乃遣嗣子尉仇台(印)〔詣〕闕貢獻、天子賜尉仇台印綬金綵。
都尉でも尉でも王ですな。
>>四代依慮は西晋の庇護を受け、火列国(払涅靺鞨とも言う、現:黒龍省)
に扶余を再興している
>>またえらく遠くに?周り敵だらけだろうに?旧領なら分かりますが?で、
>この依慮王ですが、№156612で私が出した人物ですか?
西晋のとりなしで高句麗の領地を割譲してもらってるから致し方ないね。三代麻余が高句麗の血縁者(妻側)だった可能性がある。
>太康六年(285年)、慕容■(ぼようかい、“かい”は「まだれ」に「鬼」)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。
>翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を派遣し、慕容■は皇軍と
戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った(『晋書』)扶余、弱いですねぇ(苦笑) 公孫度、同盟して役に立ったんだろうか?
依慮の時代には公孫氏は存在しない。頭がワープしてるのかね?(爆)
>>『帯方』が朝鮮半島にあったと思ってるのかね?(爆)
>思ってますよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1
ちなみに、後年百済第27代 威徳王」(在位554〜598年)は、北斉(隋のひとつ前)に使節を送り『使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王』という官位を授かった(570年)そうですが?どうせペーパーの軍権ですが、これを「遼東半島まで」と考えちゃ、いくらなんでも欲張り過ぎでしょう(笑)そして中華の認識も、『帯方郡=朝鮮半島中西部』ですけど?
貴方のいう帯方はずーと後年の話ね。
今話してるのは、卑弥呼の生きた時代の話。
で、貴方の論だと高句麗と馬韓の間に楽浪郡も帯方郡もある事になるが、こんなボケ論を展開して後悔しないのかね?
貴方のお好きなウィキでも、こちらには書かれていないがね?(猛爆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
これは メッセージ 156812 (qapla_jup さん)への返信です.
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