>uumin3さん、レスのその2
投稿者: netcitizenjp 投稿日時: 2002/08/29 00:13 投稿番号: [1068 / 230347]
c.f 今のところはこういう前提をおいてかんがえていますけど。
→中心点(求心力)をコミュニティにおくと不自然か?
→中心点(求心力)の向かう先が「民族」になったとは考えられないか?
>またそれこそ正史で千回にも及ぶとされる被侵略戦争
でも、記録上必ず「韓奸」とか「売国奴」などと呼ばれる人々が登場しますが、これはあ
くまでも被支配者の民の側に国民感情がなかったための結果ではないでしょうか?彼らに
反国家的行動という意識があったとは思えません。単に支配勢力が危機に陥った好機だか
ら、自分の利を見て行動したというのに過ぎないのではないかと思います。この点では韓
国の歴史の方が自虐的で、常に「裏切り者」を抱えていたことになってしまっています(笑)
これは儒教の影響が強いように感じます。
儒教精神は人に従順にみえて、裏では自分の利を見て行動することも厭わない両面性があります。
中国史でも、こういった行為は見られます。
宦官はその典型でしょう。中国は宦官の専横に泣かされ続けたと思います。
> ここにnetcitizenjpさんがお感じになる「違和感」は、おそらく「国民(民族)国家」概念
というものの曖昧さに起因するのではないかと私は感じました。
おっしゃる通りです。
>確かにおっしゃるように、
日本の国民国家像と韓国の国民国家像、そして本家本元の欧米の国民国家像は異なっている
ようにも見受けられます。ですが、単に言葉が通じるからとか近隣に住んでいるからとかいう
レベルを超えた「国民(民族)」というまとまりが国家を形成する(あるいはすべき)という
考え方自体は、私はきわめて近代的な(というか人類史上ユニークな)ものではないかと考え
ております。その意味で「国民(民族)」という捉え方自体も新たに作られた(生み出された)
ものなのかもしれません。それゆえ国民国家も(我々自身がその渦中にいるという点からも)
まだまだ確定的な定義を持たない曖昧な概念なのかもしれないのですが…。
> 今現在、韓国民の国民性云々の話で必ず語られる「儒教的」なものでさえ、たかだか14世紀
末以降の「獲得形質」に過ぎないではないですか。歴史を見るということは、時にそうした突き
放した冷静さを要求されるということだと思います。まして
余談だが、私は腐った儒教精神とかつて投稿したことがありますね。
今の韓国の儒教精神のおかげで、反在日の差別意識が生まれているのもまた事実だからね。
だって、例えば”客死”、死んで自分の生家のしきいをまたげないってケースが慣習にありますね。
(だって、あんたが生まれたのはこの人がいたからだよって最初に考えるのが普通の理性って
ものではないですか?)
→中心点(求心力)をコミュニティにおくと不自然か?
→中心点(求心力)の向かう先が「民族」になったとは考えられないか?
>またそれこそ正史で千回にも及ぶとされる被侵略戦争
でも、記録上必ず「韓奸」とか「売国奴」などと呼ばれる人々が登場しますが、これはあ
くまでも被支配者の民の側に国民感情がなかったための結果ではないでしょうか?彼らに
反国家的行動という意識があったとは思えません。単に支配勢力が危機に陥った好機だか
ら、自分の利を見て行動したというのに過ぎないのではないかと思います。この点では韓
国の歴史の方が自虐的で、常に「裏切り者」を抱えていたことになってしまっています(笑)
これは儒教の影響が強いように感じます。
儒教精神は人に従順にみえて、裏では自分の利を見て行動することも厭わない両面性があります。
中国史でも、こういった行為は見られます。
宦官はその典型でしょう。中国は宦官の専横に泣かされ続けたと思います。
> ここにnetcitizenjpさんがお感じになる「違和感」は、おそらく「国民(民族)国家」概念
というものの曖昧さに起因するのではないかと私は感じました。
おっしゃる通りです。
>確かにおっしゃるように、
日本の国民国家像と韓国の国民国家像、そして本家本元の欧米の国民国家像は異なっている
ようにも見受けられます。ですが、単に言葉が通じるからとか近隣に住んでいるからとかいう
レベルを超えた「国民(民族)」というまとまりが国家を形成する(あるいはすべき)という
考え方自体は、私はきわめて近代的な(というか人類史上ユニークな)ものではないかと考え
ております。その意味で「国民(民族)」という捉え方自体も新たに作られた(生み出された)
ものなのかもしれません。それゆえ国民国家も(我々自身がその渦中にいるという点からも)
まだまだ確定的な定義を持たない曖昧な概念なのかもしれないのですが…。
> 今現在、韓国民の国民性云々の話で必ず語られる「儒教的」なものでさえ、たかだか14世紀
末以降の「獲得形質」に過ぎないではないですか。歴史を見るということは、時にそうした突き
放した冷静さを要求されるということだと思います。まして
余談だが、私は腐った儒教精神とかつて投稿したことがありますね。
今の韓国の儒教精神のおかげで、反在日の差別意識が生まれているのもまた事実だからね。
だって、例えば”客死”、死んで自分の生家のしきいをまたげないってケースが慣習にありますね。
(だって、あんたが生まれたのはこの人がいたからだよって最初に考えるのが普通の理性って
ものではないですか?)
これは メッセージ 1057 (uumin3 さん)への返信です.
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