朝鮮総督府の功績を語ろう。

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Re: 「植民地」史観を超える「生活実態」の

投稿者: mimikazuya2244 投稿日時: 2007/11/29 17:55 投稿番号: [57 / 175]
共に心血を注いだ土木事業
  こうした日本の朝鮮統治政策のいわば末端を、松尾氏は中村組という土木会社の現場責任者として担ったわけである。
  まず、朝鮮に渡った氏が最初に手がけたのは忠清南道での潅漑工事であった。最初に担当したのは「出面係」といって、各現場を回って作業員の数を把握し、彼らに支払う金票を用意する仕事である。当時の朝鮮人の作業員の生活について、氏は「こういった土木の仕事があって、(初めて)どうにか飯が当たり前に食べられるといってもいいぐらいだった」と語る。当時の土木事業には、窮民共済の意義もあったのだ。

  昭和七年三月、夜学で通った京城の工科学校を卒業すると同時に、氏は架橋工事の現場代人(現場責任者)を任される。弱冠二十二歳だった。その頃は宇垣総督のもと、農村振興運動が取り組まれ、半島開発がいよいよ本格化していく時代であった。そうした中、松尾氏は朝鮮の人々とともに各地を回り、道路建設や架橋、あるいは水利工事に心血を注いでいったのである。

  そして昭和十二年、盧溝橋事件が起こって戦時色が強まる中、氏は鉄道工事に携わる。その後、鴨緑江に橋を架けるという大工事を任されるが、氏はそこで九死に一生を得ることになる事故にも遭遇する。

  さらに平安南道の大規模な農地開発に取り組むが、その最中、突然の終戦を氏は迎えることとなる。「これだけの土地を干拓して水田にすれば米の大増収が可能になるということで、使命感のようなものを感じていた。工事のことに熱中していたので、戦争が終わりになるとは予想もしていなかった」と氏は当時を振り返っている。

  このような簡単な経緯を見ただけでも、松尾氏が朝鮮半島の開発のために、朝鮮の人々と共にまさに懸命に働いた事実が分かるだろう。

  ところで氏が、終戦後五十五年以上も過ぎた今日、こうした体験を書き留めるに至った動機は何なのか−−。「あの当時の安州の人たちや、……朝鮮の青年たちの顔がしきりと思い出されるからにほかならない」として、氏はこう記している。

  「三十余年かかって半島に金と手を加えてきた成果が、ようやく実を結びはじめていた。……これからいよいよ花開くというときに、終戦になってしまった。もしあのまま工事がつづいていたら、北朝鮮の食糧事情はずいぶん違うものになっていたのではなかろうか。これからというときに残念なことをした、そういう思いが私のなかにある」「彼らは飢えることなく、飯をちゃんと食べているのだろうか。鴨緑江のほうでも食べるものがないという話を聞くと、やはり心が波立つ」

  当時の朝鮮の人々に対する深い愛着とともに、自分たちが手がけた土木事業に対する素朴な誇りが、氏をしてこの本を執筆させるに至ったということだ。
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