対米全面テロ

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「戦後」60年_7

投稿者: pyu_pyu_kitakaze 投稿日時: 2005/07/31 13:04 投稿番号: [173706 / 177456]
入植は一家六人だった。翌年、母が病死。二十年三月には兄が応召され、四カ月後に戦病死。そして。八月十日、父、亀治さんが出兵。「抱き合って泣く三人を見ながら、父は顔をそむけ手を振って行きました。一銭もなく取り残されました。おとろしゅうて、よう寝んかった」。その恐怖の一夜が明けた途端、三人の逃避行が始まったのだ。

  高知市北竹島町の自宅。ちゃぶ台の向こう側に座った茂さん(67)は、五十五年前の記憶をゆっくりたどる。手には小さなタオルを握りしめていた。

  泣きわめく妹たちの背中にリュックを負わせて出発した。入植者の住む六地区の老人と女性、子どもばかりの集団は「アリの行列」のように昼も夜も歩き続けた。

  どこから、いつ飛んでくるか分からない銃弾。その度に行列は乱された。右手に弟、その右に妹、三人が手を握る。その茂さんの耳元をヒュンと弾がかすめる。突然、真横を歩く子ども二人を背負った女性が見えなくなった。バタッ。血のりが広がる。だが振り向く人はいない。皆ただ前を見つめ、歩く。

  食料も水もない。幼児や老人の数が次第に減っていく。雨が降れば馬のひづめ跡にたまった水をすくう。「赤い虫がいっぱい」。目をつぶって飲んだ。

  松花江の支流を渡った時はひどかった。向こう岸はかすむほど遠い。両岸を渡した針金を握り、両足で水面をたたきながら進む。「助けてー!」。手がはずれて濁流に流される子ども。「息子と一緒に」と、流れに飛び込む母もいた。

  「山の中も道ばたも、川の中にも、そのそばにも死人。目が開けられんかった。いつ殺されるか。いつ死ぬか。一生よう忘れん」

  半月以上の放浪の末、方正県の日本人開拓本部にたどり着いた。茂さんたちは倉庫を家にしてその年の冬を越すのだが…。

  話しながら、茂さんは小さなタオルで何度も目元をぬぐう。「涙を流さんとろうと思うても、出てくる。それが恥ずかしゅうて」。そうつぶやいて、またそっとタオルを目にあてた。

  蓄えのある人は一人、一人と日本を目指した。しかし幼い三人はとどまるしかなかった。配給の食料は徐々に減る。病気になり、衰弱し、厳寒の大地には埋葬の穴さえ掘ることができない。凍りついた遺体が次々に野ざらしになった。氷が解け始めると、今度はカラスや犬が遺体を引きちぎる。避難所の周囲は遺体の頭や手足、そして異臭が満ちた。

  二十一年春、三人は別々の中国人家庭に引き取られる。「知らないおじいさんが来て。売られたがでしょう」。避難所を出る時、周囲から掛けられた言葉をしっかり覚えている。「なんとかして生きておらな。命だけは残しなさい」

  茂さんは三軒目に世話になった劉さん方の二男と結婚した。十四歳だった。

  いま茂さんは、さまざまな集いで戦争を知らない世代へ語り掛ける。平成五年に永住帰国。子どもの安否を知らぬまま復員した父は他界していた。

語る夏 語らない夏
http://www.kochinews.co.jp/rensai00/kataru01.htm

高知新聞
http://www.kochinews.co.jp/index.htm
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