張作霖爆殺事件とその処理
投稿者: uberzeitgeist 投稿日時: 2008/11/10 19:50 投稿番号: [44030 / 73791]
1928年6月4日張作霖爆殺事件発生。この事件は関東軍参謀の「満蒙権益」についての考え方がそれ以前と変化したことを示しています。
それまでは満州を根拠地とする軍閥を支持し間接的に「満蒙権益」を守るというものであったのに対し、この事件は軍閥はもはや頼りにならず日本が直接満蒙を支配すべきだとの考え方を表しています。
国民党軍の長城以南掌握とともに満州地域が次の北伐の対象となることに関東軍は危機感を持ち始めたのです。謀略によってコトを起こし政府の支持を得、一挙に占領しようと考えたのです。北伐を再開させた国民党軍が北京に入城したのは6月9日でした。
田中義一首相は当初は事件の真相を究明公表し軍法会議を開き厳罰に処する方針でした。元老西園寺もこれを支持しています。理由は軍部の綱紀粛正を図り以って諸外国(中国も含め)の日本に対する信頼感を増すことが期待できるとの考えからです。列強・中国協調主義(「ワシントン体制精神」)です。
田中も天皇にその旨上奏しました。ところが政府は公表派と非公表派に割れました。非公表派が挙げた理由は、公表すれば中国政府は日本兵力の全面撤退を求め、列強もまたこれを支持するであろう。その場合「満蒙権益」は危うくなるというものです。
結局非公表が勢いを増し田中も二度目の上奏(1929年6月)でその旨を述べたところ天皇から前回との違いを厳しく指摘叱責されその責任を取って辞職しました。
処罰は事件そのものの責任を問うものではなく警備責任の追及という形となり首謀者河本大佐の停職(行政処分)という軽いもので終わりました。
一方、父親の跡を継いだ張学良は1928年7月3日国民党政府と妥協し東三省保安総司令官に任命され29日青天白日旗掲揚を決定します(実施は12月)。満州は形の上で国民党政府支配地となり中国統一が完了しました。張作霖事件は張学良の対日態度に決定的な影響を及ぼし反日に走らせたのです。
この軽い処分が1931年の満州事変への伏線となったばかりでなく、列強協調路線からその後次第に離れていく分岐点となりました。その意味でこの事件処理はその後の日本にとって極めて重要です。
田母神氏は張作霖爆殺事件についてのその論考において「関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。」と述べています。しかし、当時、政府が峯司令官を現地に派遣し河本大佐、東宮独立守備隊大尉を尋問し調査報告書をまとめ、田中に報告している事実を覆すものではありません。
P.S
「満州事変」「シナ事変」についても再度よく調べてから投稿します。トビズレであることは承知しておりますが、過去一週間余の本板でのやり取りをまとめたものです。ご容赦ください。
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.
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