「ワシントン体制」
投稿者: uberzeitgeist 投稿日時: 2008/11/10 19:46 投稿番号: [44029 / 73791]
いわゆる「ワシントン体制」といのは、4カ国条約・海軍軍縮条約・9カ国条約からなる東アジア太平洋地域における緊張緩和・現状維持を目指した「体制」といえます。
「体制」と括弧付なのはしっかりした機構等が存在せずいわば参加国の協調精神の現われであることに意義があるからです。
このような協調体制が成立した背景は、第一次大戦がヨーロッパ主要国・米国に甚大な影響を及ぼし社会のあり方が大戦以前と様変わりとなったからでした。
大戦は総力戦でしたからそれに参加した女性の解放(スカートの丈はそれまで地を這うほどでしたが戦後は膝の下となったと言われています)が始まり労働者の力が以前よりも強くなりました。
国際政治においては、1914年以前の剥き出しのパワーの行使(帝国主義時代のゲームのルール)からそれに一定の歯止めを掛けようという気運が現われ、これが常設国際司法裁判所・国際連盟・1928年の不戦条約に結び付きます。
帝国主義行動そのものが否定された訳ではなくそのあり方に一定の網を被せようとしたのです。しかし、これは第二次大戦後のそれのように整備されたものではありませんでした。
1921年12月の4カ国条約は、英米仏日が太平洋における相互の利益を認め、現状維持を図ったものです。日英同盟はこの条約の中に発展解消されました。日本にとっても英国にとっても米国の重要性が増したのです。
海軍軍縮条約については略します。
1922年2月の9カ国条約は、上記4カ国に加えオランダ・ベルギー・ポルトガル・イタリア・中国(北京政府)が調印しました。中国の「門戸開放・領土保全」を相互に承認したものです。
日本の「満蒙権益」については、日本は「中国とは長城以南を指す」と解釈し米国もそれを黙認し日本の調印に重点を置きました。しかし、「満蒙権益」の位置づけが明確になった訳ではありません。
列強が中国における現状の権益を相互に認め現状維持を図ったものであり、同時に中国が近代統一国家として発展していくことを列強が支持したものでした。
このような精神の下に、日本は1922年2月「山東懸案解決条約」を中国と締結し、山東からの軍の全面撤退・山東鉄道の返還を実施します。これにより五四運動以来の反日運動も沈静化へと向かいました。
日本はこれ以来中国に対しては軍事アプローチではなく経済アプローチへと動きます。
中国のナショナリズムはこれから先日本ではなく英国に向けられていきます。1927年1月漢口英国租界等の襲撃を受けた英国は日本に上海共同出兵を提案しますが日本政府は拒否しています。また、1928年8月不戦条約に調印したのも同様な精神の現われといえます。
「ワシントン体制」がピークに達したのは恐らくこの頃であり、国民党政府による中国統一が次第に明確となり米国は1928年11月に英仏は12月に日本も1929年6月には国民党政府を承認し、列強は次第に中国と個別に交渉し譲歩してゆくようになっていきます。
しかし、「ワシントン体制」を支えた精神はまだ生きている一方で、日本の「満蒙権益」を中国政府にどう呑ませるかという課題が切実味を帯びてきます。
「体制」と括弧付なのはしっかりした機構等が存在せずいわば参加国の協調精神の現われであることに意義があるからです。
このような協調体制が成立した背景は、第一次大戦がヨーロッパ主要国・米国に甚大な影響を及ぼし社会のあり方が大戦以前と様変わりとなったからでした。
大戦は総力戦でしたからそれに参加した女性の解放(スカートの丈はそれまで地を這うほどでしたが戦後は膝の下となったと言われています)が始まり労働者の力が以前よりも強くなりました。
国際政治においては、1914年以前の剥き出しのパワーの行使(帝国主義時代のゲームのルール)からそれに一定の歯止めを掛けようという気運が現われ、これが常設国際司法裁判所・国際連盟・1928年の不戦条約に結び付きます。
帝国主義行動そのものが否定された訳ではなくそのあり方に一定の網を被せようとしたのです。しかし、これは第二次大戦後のそれのように整備されたものではありませんでした。
1921年12月の4カ国条約は、英米仏日が太平洋における相互の利益を認め、現状維持を図ったものです。日英同盟はこの条約の中に発展解消されました。日本にとっても英国にとっても米国の重要性が増したのです。
海軍軍縮条約については略します。
1922年2月の9カ国条約は、上記4カ国に加えオランダ・ベルギー・ポルトガル・イタリア・中国(北京政府)が調印しました。中国の「門戸開放・領土保全」を相互に承認したものです。
日本の「満蒙権益」については、日本は「中国とは長城以南を指す」と解釈し米国もそれを黙認し日本の調印に重点を置きました。しかし、「満蒙権益」の位置づけが明確になった訳ではありません。
列強が中国における現状の権益を相互に認め現状維持を図ったものであり、同時に中国が近代統一国家として発展していくことを列強が支持したものでした。
このような精神の下に、日本は1922年2月「山東懸案解決条約」を中国と締結し、山東からの軍の全面撤退・山東鉄道の返還を実施します。これにより五四運動以来の反日運動も沈静化へと向かいました。
日本はこれ以来中国に対しては軍事アプローチではなく経済アプローチへと動きます。
中国のナショナリズムはこれから先日本ではなく英国に向けられていきます。1927年1月漢口英国租界等の襲撃を受けた英国は日本に上海共同出兵を提案しますが日本政府は拒否しています。また、1928年8月不戦条約に調印したのも同様な精神の現われといえます。
「ワシントン体制」がピークに達したのは恐らくこの頃であり、国民党政府による中国統一が次第に明確となり米国は1928年11月に英仏は12月に日本も1929年6月には国民党政府を承認し、列強は次第に中国と個別に交渉し譲歩してゆくようになっていきます。
しかし、「ワシントン体制」を支えた精神はまだ生きている一方で、日本の「満蒙権益」を中国政府にどう呑ませるかという課題が切実味を帯びてきます。
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.