特攻隊員の母、鳥浜トメ 蛍帰るその四
投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/07/29 16:53 投稿番号: [8579 / 9207]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_index_frame.htm
■7.今生の別れの歌アリラン■
5月10日の夜、光山は「小母ちゃん、いよいよ明日出撃な
んだ」とボソリと言った。「長いあいだありがとう。小母ちゃ
んのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝
鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でも、おれは朝鮮人な
んだ。長いあいだ、ほんとうに親身になって世話してもらって
ありがとう。実の親も及ばないほどだった。」
「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」 トメはそっ
と目頭を押さえた。「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」
「まあ、光山さん、あんたが歌うの」
孤独な光山が歌を歌う姿は一度も見たことがなかった。光山
はあぐらをかき、涙を隠すためであろう、戦闘帽のひさしをぐ
いと下げて、びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていく
わたしを捨てて行くきみは
一里もいけず 足いたむ
トメも娘たちもこの歌を知っていたので、一緒に歌い出した
が、途中で泣き出してしまった。光山少尉の今生の別れの歌だ
った。それは日本では隠さなければならなかった彼のアイデン
ティティを示す歌だった。明日は出撃し、敵艦に体当たりする。
祖国を守るために。その祖国とは日本ではない。日本と運命を
ともにしていた朝鮮だ。
昭和18年の朝鮮での特別志願兵の応募者は30万人以上、
採用6300人の50倍近くだった。大戦中は24万2341
人の朝鮮人青年が軍人・軍属として戦い、2万1千余柱が靖国
神社に祭られている。特攻隊員として出撃・散華した朝鮮人軍
人は光山少尉を含め14名である。[2,p463]
■8.観音像の建立■
戦争が終わり、年が変わって昭和21年。知覧飛行場で最後
の特攻機が燃やされた際、トメは近くに落ちていた棒杭を地面
に立てて、娘たちにこう言った。
さ、これがきょうからあの人たちのお墓の代わりだよ。
たった一つしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。
それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけな
いことなんだよ。
特攻隊を称えるだけで「軍国主義者」のレッテルを貼られる
時代だった。墓など作ったらすぐ壊されてしまう。こんな棒杭
なら壊しに来る人はいないだろう。その代わりに毎日お参りに
くるから許してくださいね、とトメと娘たちは手を合わせた。
昭和25年、朝鮮戦争の特需で経済復興も始まり、特攻隊へ
の逆風が静まっていた。トメは毎日の棒杭参りを続けながら、
昔なじみの知覧町長のもとに通っては特攻隊員たちのための観
音像建立の請願を続けた。自分の費用で建てれば、すぐにでも
実現できたが、それでは慰霊が私的なものになってしまう。特
攻隊員たちはお国のために命を捧げたのだから、その慰霊は公
に行われなければならなかった。
昭和30年9月28日、知覧飛行場の一角に観音像が完成し、
その除幕式の日にトメは像の前の手水鉢を寄進した。それから
トメは毎日ガムやキャンデーを持って、観音像の所へ行き、遊
んでいる子供たちを集めては、一緒の掃除をする。それから
「はい、それでは観音様のお下がりをいただきましょう」と言
って、ガムやキャンデーを配る。こうすることによって、自分
の死後も、この子供たちの中から、観音像をお守りしてくれる
人が育つだろうと考えていたのだ。さらにトメは観音像に至る
道に石灯籠を寄進する運動を進めていった。
昭和62年2月、特攻隊の生き残りでトメに励まされた人々
の努力によって、知覧特攻平和会館が開館した。修学旅行など
参観者は多く、たとえば平成12年には54万人にも及んだ。
■7.今生の別れの歌アリラン■
5月10日の夜、光山は「小母ちゃん、いよいよ明日出撃な
んだ」とボソリと言った。「長いあいだありがとう。小母ちゃ
んのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝
鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でも、おれは朝鮮人な
んだ。長いあいだ、ほんとうに親身になって世話してもらって
ありがとう。実の親も及ばないほどだった。」
「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」 トメはそっ
と目頭を押さえた。「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」
「まあ、光山さん、あんたが歌うの」
孤独な光山が歌を歌う姿は一度も見たことがなかった。光山
はあぐらをかき、涙を隠すためであろう、戦闘帽のひさしをぐ
いと下げて、びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていく
わたしを捨てて行くきみは
一里もいけず 足いたむ
トメも娘たちもこの歌を知っていたので、一緒に歌い出した
が、途中で泣き出してしまった。光山少尉の今生の別れの歌だ
った。それは日本では隠さなければならなかった彼のアイデン
ティティを示す歌だった。明日は出撃し、敵艦に体当たりする。
祖国を守るために。その祖国とは日本ではない。日本と運命を
ともにしていた朝鮮だ。
昭和18年の朝鮮での特別志願兵の応募者は30万人以上、
採用6300人の50倍近くだった。大戦中は24万2341
人の朝鮮人青年が軍人・軍属として戦い、2万1千余柱が靖国
神社に祭られている。特攻隊員として出撃・散華した朝鮮人軍
人は光山少尉を含め14名である。[2,p463]
■8.観音像の建立■
戦争が終わり、年が変わって昭和21年。知覧飛行場で最後
の特攻機が燃やされた際、トメは近くに落ちていた棒杭を地面
に立てて、娘たちにこう言った。
さ、これがきょうからあの人たちのお墓の代わりだよ。
たった一つしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。
それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけな
いことなんだよ。
特攻隊を称えるだけで「軍国主義者」のレッテルを貼られる
時代だった。墓など作ったらすぐ壊されてしまう。こんな棒杭
なら壊しに来る人はいないだろう。その代わりに毎日お参りに
くるから許してくださいね、とトメと娘たちは手を合わせた。
昭和25年、朝鮮戦争の特需で経済復興も始まり、特攻隊へ
の逆風が静まっていた。トメは毎日の棒杭参りを続けながら、
昔なじみの知覧町長のもとに通っては特攻隊員たちのための観
音像建立の請願を続けた。自分の費用で建てれば、すぐにでも
実現できたが、それでは慰霊が私的なものになってしまう。特
攻隊員たちはお国のために命を捧げたのだから、その慰霊は公
に行われなければならなかった。
昭和30年9月28日、知覧飛行場の一角に観音像が完成し、
その除幕式の日にトメは像の前の手水鉢を寄進した。それから
トメは毎日ガムやキャンデーを持って、観音像の所へ行き、遊
んでいる子供たちを集めては、一緒の掃除をする。それから
「はい、それでは観音様のお下がりをいただきましょう」と言
って、ガムやキャンデーを配る。こうすることによって、自分
の死後も、この子供たちの中から、観音像をお守りしてくれる
人が育つだろうと考えていたのだ。さらにトメは観音像に至る
道に石灯籠を寄進する運動を進めていった。
昭和62年2月、特攻隊の生き残りでトメに励まされた人々
の努力によって、知覧特攻平和会館が開館した。修学旅行など
参観者は多く、たとえば平成12年には54万人にも及んだ。
これは メッセージ 8578 (ninnikumanx さん)への返信です.
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