朝日新聞 昭和27年3月7日
投稿者: yaokkun7 投稿日時: 2006/06/03 07:07 投稿番号: [7329 / 9207]
http://www.geocities.jp/upreloadpicture/asahi-takeshima.jpg
朝日新聞 昭和27年3月7日 朝刊神戸版
竹島に日本領の確証
回船問屋が発見
由来記伝える大谷家
日本海の真ったゞ中、マックァ−サ−・ラインのすぐ内側にある竹島は日韓両国からその帰属をめぐって注目されているが、隠岐島民の”ドル箱漁場”だったこの無人島が、正式に日本帰属となる日を期待している−それは三百年前に同島を発見した米子の回船問屋大谷久(九)右衛門勝家(宗)の実孫で、竹島が日本領であることを確証する「竹島渡海由来記拔書」を代々守り伝えて来た山陽(判読不明)課長、神戸須磨区月見山三丁目大谷弘氏(四八)一家であろう。
竹島渡海由来記拔書によると、米子市灘町一丁目で回船問屋を始めた初代久(九)右衛門勝家(宗)のオイ大谷甚吉が元和三年(1617年)竹島(今の鬱陵島)に漂着したのをきっかけに、翌年から朱印船にキコリ、猟師五十余人を乗り組ませ、同島で香木を切ったり、アワビを獲って、これを日本に運んだ。
松島(今の竹島)は米子−鬱陵島の航路上にあるが、ケシ粒のように連なっている岩で、その上、潮流の関係もあって同島が発見されたのは、初航海から二十五年目の一六四三年二代目九右衛門勝実によってである。
由来記には「その後大猷院(徳川家光)様御代、竹島海道にて松島と申す島を見出し、御注進申奉り候えば、竹島の通り支配御許し遊ばされ、右両島へ渡海仕り来り・・・」と記されている。
しかし元禄九年(一六九六) 鬱陵島での"朝鮮じん"との紛争から将軍綱吉は渡海を禁止し、4代九右衛門勝房は前後九年も江戸で再渡航を懇請したが、志なかばで○(判読不明)に倒れた。
”このままでは小島開発に努めた先駆者の業績も忘れられる”と5代勝起がまとめ上げた記録がこの由来記で、散逸を防ぐため一代ごとに、一冊ずつ清書して子孫に残すことが大谷家のおきてとなっているという。
大谷弘氏は十一代目の当主で、昨年夏、竹島の帰属が問題になったとき、同氏の妻文子さん(四二)は「百里の荒波を乗越えた先祖の意気はきっと子供たち(二男一女)を励ますに違いない」と由来記の現代語訳を思い立ち、実姉の大阪天王寺区味原町田中嘉枝さんの読み下す古文書を徹夜でノート、文子さんの姉弟七人の家族をつなぐガリ版の季刊懇親雑誌「はらから」に連載した。
同家には由来記のほかに千点以上の古文書があり、いま文子さんが整理中だが、竹島の日本領有を証拠立てる記録は由来記のほか、幕府から大谷家へあてた書簡、七代勝意の「大谷家由緒実記」などにも見出される。
五日同家を訪れると大谷夫妻は「いま東京で開かれている日韓交渉の成行きをかたずをのんで見守っています。もしこれらの記録が入用なら、いつでも役立てたい」と、かつて朱印船の帆柱にひるがえったであろうアオイの紋入りの旗を拡げて見せた。
写真は 上 「竹島」発見者の末孫、大谷弘夫妻と古文書類・ 下 竹島付近の地図(この地図には、竹島を日本領とするマッカーサー・ラインのみが記入されている。)
朝日新聞 昭和27年3月7日 朝刊神戸版
竹島に日本領の確証
回船問屋が発見
由来記伝える大谷家
日本海の真ったゞ中、マックァ−サ−・ラインのすぐ内側にある竹島は日韓両国からその帰属をめぐって注目されているが、隠岐島民の”ドル箱漁場”だったこの無人島が、正式に日本帰属となる日を期待している−それは三百年前に同島を発見した米子の回船問屋大谷久(九)右衛門勝家(宗)の実孫で、竹島が日本領であることを確証する「竹島渡海由来記拔書」を代々守り伝えて来た山陽(判読不明)課長、神戸須磨区月見山三丁目大谷弘氏(四八)一家であろう。
竹島渡海由来記拔書によると、米子市灘町一丁目で回船問屋を始めた初代久(九)右衛門勝家(宗)のオイ大谷甚吉が元和三年(1617年)竹島(今の鬱陵島)に漂着したのをきっかけに、翌年から朱印船にキコリ、猟師五十余人を乗り組ませ、同島で香木を切ったり、アワビを獲って、これを日本に運んだ。
松島(今の竹島)は米子−鬱陵島の航路上にあるが、ケシ粒のように連なっている岩で、その上、潮流の関係もあって同島が発見されたのは、初航海から二十五年目の一六四三年二代目九右衛門勝実によってである。
由来記には「その後大猷院(徳川家光)様御代、竹島海道にて松島と申す島を見出し、御注進申奉り候えば、竹島の通り支配御許し遊ばされ、右両島へ渡海仕り来り・・・」と記されている。
しかし元禄九年(一六九六) 鬱陵島での"朝鮮じん"との紛争から将軍綱吉は渡海を禁止し、4代九右衛門勝房は前後九年も江戸で再渡航を懇請したが、志なかばで○(判読不明)に倒れた。
”このままでは小島開発に努めた先駆者の業績も忘れられる”と5代勝起がまとめ上げた記録がこの由来記で、散逸を防ぐため一代ごとに、一冊ずつ清書して子孫に残すことが大谷家のおきてとなっているという。
大谷弘氏は十一代目の当主で、昨年夏、竹島の帰属が問題になったとき、同氏の妻文子さん(四二)は「百里の荒波を乗越えた先祖の意気はきっと子供たち(二男一女)を励ますに違いない」と由来記の現代語訳を思い立ち、実姉の大阪天王寺区味原町田中嘉枝さんの読み下す古文書を徹夜でノート、文子さんの姉弟七人の家族をつなぐガリ版の季刊懇親雑誌「はらから」に連載した。
同家には由来記のほかに千点以上の古文書があり、いま文子さんが整理中だが、竹島の日本領有を証拠立てる記録は由来記のほか、幕府から大谷家へあてた書簡、七代勝意の「大谷家由緒実記」などにも見出される。
五日同家を訪れると大谷夫妻は「いま東京で開かれている日韓交渉の成行きをかたずをのんで見守っています。もしこれらの記録が入用なら、いつでも役立てたい」と、かつて朱印船の帆柱にひるがえったであろうアオイの紋入りの旗を拡げて見せた。
写真は 上 「竹島」発見者の末孫、大谷弘夫妻と古文書類・ 下 竹島付近の地図(この地図には、竹島を日本領とするマッカーサー・ラインのみが記入されている。)
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/7329.html