「島名の混乱」 半月城論文を検証
投稿者: okinawatorafu2005 投稿日時: 2006/01/31 19:26 投稿番号: [5864 / 9207]
引用:
三 島名の混乱と「松島」開拓願い
元禄時代の竹島渡海禁止令以降、日本から松島、竹島への渡航は密漁などを
のぞき途絶えたので、次第に両島の所在があいまいになりだした。明治時代、
文明開化で日本が欧米文化を積極的に取り入れるようになると、両島に関する
欧米の間違った地図が流入するようになり、ついには松島、竹島の島名すら混
乱する事態に発展した。
混乱の遠因は、一七八九年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を
本来より朝鮮寄りに見誤ったことにあった。コルネットはそれをアルゴノート
島と名づけたが、この誤った知識にもとづき作成された地図がのちに日本に混
乱をもたらした。正しい鬱陵島の位置は、欧米では一七八七年にフランスの軍
艦により確認されており、確認者にちなんでダジュレー島と命名されていた。
結果的にひとつの島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまった。
やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号により一
八五四年に確認された。この確認に、じつに六五年もの歳月がかかったのであ
る。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、一九世紀なかばになっても容易
ではなかった。
アルゴノート島が存在しないことが確認される前、日本になじみの深いシー
ボルトはそれらを別々の島と考え、あわせて古来の日本地図を参照し、朝鮮寄
りとされた架空の島を「Takasima I.Argonaute(ママ)」、本来の竹島(鬱陵
島)を「Matsusima I.Dagelet」と記入した誤りの地図を一八四〇年に作成した。
当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボルト
の比定はやむを得ない面もあったが、この誤りが島名の混乱に拍車をかけた
(21)。
一方、竹島=独島が欧米で知られるようになったのは、一八四九年、フラン
スの捕鯨船リアンクール号による確認が最初であった。ついで、一八五五年、
イギリスのホーネット号によっても確認された。これから同島は、のちにホー
ネットとかリアンコールト、リヤンコ島、と一八四九年などと呼ばれるようにな
った。こちらは位置の測定が正確だったのか、別々な島として認識されること
はなかった。
こうした知識は、日本遠征をもとに一八五五年に作成されたペリー提督の
「日本近域図」やハイネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二
島)は和訳で「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネッ
ト 一八五五」と記入された。ここで竹島の名前が松島に入れ替わってしまっ
たが、ペリーたちの情報はまだしも正確なほうで、ほかの欧米地図では架空の
アルゴノートが一八九四年ころまで存在し続けたものもあった。
そうしたまちがった欧米の地図に惑わされ、日本でも鬱陵島を松島、架空の
アルゴノートを竹島と記入した地図が次第に出回るようになった。そうした地
図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を松島と正しく記
した地図も多数存在した。これらは、江戸時代後期を代表する長久保赤水の
『日本輿地路程全図』の系統によるものである。
ほかにアルゴノートを記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島と記した地
図などもあった。以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島を指したり、架空の
アルゴノートを指したりまちまちであった。同様に松島は竹島=独島を指した
り、鬱陵島を指したりした。
Trafu: 年代
1787年ダジュレー島
1789年アルゴノート
1840年シーボルト「Takasima I.Argonaute」「Matsusima I.Dagelet」
1849年リヤンコ島(松島)・フランス
1854年アルゴノート島は存在しない・ロシア
1855年ホーネット(松島)・イギリス
1855年ペリー提督
三 島名の混乱と「松島」開拓願い
元禄時代の竹島渡海禁止令以降、日本から松島、竹島への渡航は密漁などを
のぞき途絶えたので、次第に両島の所在があいまいになりだした。明治時代、
文明開化で日本が欧米文化を積極的に取り入れるようになると、両島に関する
欧米の間違った地図が流入するようになり、ついには松島、竹島の島名すら混
乱する事態に発展した。
混乱の遠因は、一七八九年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を
本来より朝鮮寄りに見誤ったことにあった。コルネットはそれをアルゴノート
島と名づけたが、この誤った知識にもとづき作成された地図がのちに日本に混
乱をもたらした。正しい鬱陵島の位置は、欧米では一七八七年にフランスの軍
艦により確認されており、確認者にちなんでダジュレー島と命名されていた。
結果的にひとつの島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまった。
やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号により一
八五四年に確認された。この確認に、じつに六五年もの歳月がかかったのであ
る。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、一九世紀なかばになっても容易
ではなかった。
アルゴノート島が存在しないことが確認される前、日本になじみの深いシー
ボルトはそれらを別々の島と考え、あわせて古来の日本地図を参照し、朝鮮寄
りとされた架空の島を「Takasima I.Argonaute(ママ)」、本来の竹島(鬱陵
島)を「Matsusima I.Dagelet」と記入した誤りの地図を一八四〇年に作成した。
当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボルト
の比定はやむを得ない面もあったが、この誤りが島名の混乱に拍車をかけた
(21)。
一方、竹島=独島が欧米で知られるようになったのは、一八四九年、フラン
スの捕鯨船リアンクール号による確認が最初であった。ついで、一八五五年、
イギリスのホーネット号によっても確認された。これから同島は、のちにホー
ネットとかリアンコールト、リヤンコ島、と一八四九年などと呼ばれるようにな
った。こちらは位置の測定が正確だったのか、別々な島として認識されること
はなかった。
こうした知識は、日本遠征をもとに一八五五年に作成されたペリー提督の
「日本近域図」やハイネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二
島)は和訳で「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネッ
ト 一八五五」と記入された。ここで竹島の名前が松島に入れ替わってしまっ
たが、ペリーたちの情報はまだしも正確なほうで、ほかの欧米地図では架空の
アルゴノートが一八九四年ころまで存在し続けたものもあった。
そうしたまちがった欧米の地図に惑わされ、日本でも鬱陵島を松島、架空の
アルゴノートを竹島と記入した地図が次第に出回るようになった。そうした地
図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を松島と正しく記
した地図も多数存在した。これらは、江戸時代後期を代表する長久保赤水の
『日本輿地路程全図』の系統によるものである。
ほかにアルゴノートを記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島と記した地
図などもあった。以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島を指したり、架空の
アルゴノートを指したりまちまちであった。同様に松島は竹島=独島を指した
り、鬱陵島を指したりした。
Trafu: 年代
1787年ダジュレー島
1789年アルゴノート
1840年シーボルト「Takasima I.Argonaute」「Matsusima I.Dagelet」
1849年リヤンコ島(松島)・フランス
1854年アルゴノート島は存在しない・ロシア
1855年ホーネット(松島)・イギリス
1855年ペリー提督
これは メッセージ 5863 (okinawatorafu2005 さん)への返信です.
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