1880年 「軍艦天城」の調査
投稿者: okinawatorafu2005 投稿日時: 2006/01/30 20:36 投稿番号: [5856 / 9207]
軍艦「天城」の調査 hangetsu_joh
2000年3月20日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #505
引用:
半月城です。koukokutenboさんが書かれた<「鳥取県の還日本海交流」
1996年8月20日(株式会社富士書店発行)>ですが、「還日本海」は
「環日本海」の変換ミスのようですね。
> その64ページに『(19)80年に軍艦松島を派遣して鬱陵島を調査し、
>竹島とか松島とかいわれている島が朝鮮領であることを確認した。』と記さ
>れていますが(関連44〜67ページ)その内容は全て鬱陵島における出来
>事のことであり、現竹島については全く考察されていません。
(19)80年は1880年の誤りと簡単にわかるのですが、「軍艦松島」
は「軍艦天城」の間違いではないでしょうか。
あなたは、これらの出来事をすべて鬱陵島とされていますが、軍艦天城が
明らかにした島は鬱陵島以外に「竹嶼」「北亭嶼」などがあり、決して鬱陵島
だけの話ではありません(注)。
江戸時代、日本では代表的な赤水図にみられるように、隠岐の沖合にある
島は松島・竹島の一対のみで、ほかに島はないと認識されてきました。
その後、明治になって島名の混乱が生じ、それを整理するため軍艦天城が
派遣され、その測量の結果をもとに次の重要な結論をだされました。
「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知
り、事始て了然たり。然るときは今日の松島は即ち元禄12年称する所の竹島
にして、古来我版図外の地たるや知るべし」
この時点で、内藤教授がいうように、松島・竹島は朝鮮領という認識がで
きあがったのですが、問題は「一個の岩石たる」竹島とはどの島をさすのかで
す。
これを現在の竹島(独島)であるとするのは早計かもしれません。どうや
ら軍艦天城が現在の竹島(独島)を認識して、そこまで調査にいった形跡はな
いようです。
次の可能性として、天城が測量した鬱陵島近辺の竹嶼(現韓国名・竹島)
を明治政府が「一個の岩石たる」竹島と判断した可能性が高くなります。しか
しこの場合、明治政府はそれ以外の島が隠岐の沖合にあることを認識していな
かったので、明治政府において「現竹島については全く考察されていません」
という結論になります。竹島(独島)の認識がなければ、領有意識ももちろん
生まれません。
認識がなかったことは、明治政府が、フランス軍艦により命名された「リ
アンクール岩」(俗称リャンコ岩)をそのころは新島と考えたのか、その名を
正式に採用し、1905年まで政府刊行物などで使用していたことからもうか
がい知ることができます。そのころ、松島、竹島はともに鬱陵島のこととされ
ました。
(注)北澤正誠『竹島考證』エムティ出版,1996(復刻版)
(本記事は下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
2000年3月20日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #505
引用:
半月城です。koukokutenboさんが書かれた<「鳥取県の還日本海交流」
1996年8月20日(株式会社富士書店発行)>ですが、「還日本海」は
「環日本海」の変換ミスのようですね。
> その64ページに『(19)80年に軍艦松島を派遣して鬱陵島を調査し、
>竹島とか松島とかいわれている島が朝鮮領であることを確認した。』と記さ
>れていますが(関連44〜67ページ)その内容は全て鬱陵島における出来
>事のことであり、現竹島については全く考察されていません。
(19)80年は1880年の誤りと簡単にわかるのですが、「軍艦松島」
は「軍艦天城」の間違いではないでしょうか。
あなたは、これらの出来事をすべて鬱陵島とされていますが、軍艦天城が
明らかにした島は鬱陵島以外に「竹嶼」「北亭嶼」などがあり、決して鬱陵島
だけの話ではありません(注)。
江戸時代、日本では代表的な赤水図にみられるように、隠岐の沖合にある
島は松島・竹島の一対のみで、ほかに島はないと認識されてきました。
その後、明治になって島名の混乱が生じ、それを整理するため軍艦天城が
派遣され、その測量の結果をもとに次の重要な結論をだされました。
「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知
り、事始て了然たり。然るときは今日の松島は即ち元禄12年称する所の竹島
にして、古来我版図外の地たるや知るべし」
この時点で、内藤教授がいうように、松島・竹島は朝鮮領という認識がで
きあがったのですが、問題は「一個の岩石たる」竹島とはどの島をさすのかで
す。
これを現在の竹島(独島)であるとするのは早計かもしれません。どうや
ら軍艦天城が現在の竹島(独島)を認識して、そこまで調査にいった形跡はな
いようです。
次の可能性として、天城が測量した鬱陵島近辺の竹嶼(現韓国名・竹島)
を明治政府が「一個の岩石たる」竹島と判断した可能性が高くなります。しか
しこの場合、明治政府はそれ以外の島が隠岐の沖合にあることを認識していな
かったので、明治政府において「現竹島については全く考察されていません」
という結論になります。竹島(独島)の認識がなければ、領有意識ももちろん
生まれません。
認識がなかったことは、明治政府が、フランス軍艦により命名された「リ
アンクール岩」(俗称リャンコ岩)をそのころは新島と考えたのか、その名を
正式に採用し、1905年まで政府刊行物などで使用していたことからもうか
がい知ることができます。そのころ、松島、竹島はともに鬱陵島のこととされ
ました。
(注)北澤正誠『竹島考證』エムティ出版,1996(復刻版)
(本記事は下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
これは メッセージ 5838 (okinawatorafu2005 さん)への返信です.
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