申景濬はサギ師,東国文献備考1770年改ざん
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/07/31 13:33 投稿番号: [5548 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html
安龍福の名前が出てきた最初が1693年となっている。
1696年に安龍福は再来している。そのときの記録が編年史『肅宗実録』に載り、安龍福の証言は1770年に官撰の『東国文献備考』に「于山島は倭の所謂松島(今日の竹島)なり」と載せられた。
時代が過ぎて明治維新後、『東国文献備考』は改訂され『増補文献備考』が編まれ、その註に「于山島は倭の所謂松島(今日の竹島)なり」と書かれている。
これは安龍福の証言から七、八十年後に書かれたもので、于山島を竹島とする文献は安龍福の証言以前にはない。
『東国文献備考』を根拠に、『東国輿地勝覧』と『世宗実録地理誌』の中に于山島という島の名前を見つけ、これを獨島だと主張している。
『東国輿地勝覧』には「歴々見える」というのは半島から鬱陵島がみえるのが本筋であり、鬱陵島から「歴々見える」というのは竹島ではない。
申景濬は、古地図や文献に于山島や鬱陵島が描かれていることを理由にして、「輿地志」の字句を改めて、于山島と鬱陵島を別々の島=二島と按じている。
「さらに申景濬は、安龍福の供述である「于山は則ち倭の所謂松島なり」と言う語句を、まるで「輿地志」の説であるかのように挿入して、于山島を松島(=現在の竹島(独島))と臆断して、それを于山国に入れている!!」
韓国政府が竹島の領有権を主張する根拠とした『東国文献備考』の文註は、こうして改竄されたものであったのだ。
『承政院日記』の英祖四十六年(1770年)閏五月二日条には、
『東国文献備考』の上箋文を書いた金致仁は、その編纂過程をについて、
「(申)景濬草創して、(洪)啓禧
潤色す」と述べている。
「輿地考」は申景濬の『彊界考』を底本としているが、その編纂の過程では洪啓禧という人物の手が加わり、文章に潤色がなされたと言っているのである。
これは メッセージ 5534 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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