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安龍福(7)1643年大谷九右衛門,松島発見

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/07/15 21:17 投稿番号: [5537 / 9207]
http://ww1.enjoy.ne.jp/~yonagosehara/asahi-sinnbunn.htm

松島(今の竹島)は米子−鬱陵島の航路上にあるが、ケシ粒のように連なっている岩で、その上、潮流の関係もあって同島が発見されたのは、初航海から二十五 年目の一六四三年二代目九右衛門勝実によってである。さいとまっぷ

つづらから出た古文書

(大谷家古文書)    其の二
昭和二十七年三月五日の事であった。
  大阪朝日新聞社社会部記者の寺尾宗冬氏(前年竹島へ渡海視察された方)が神戸須磨の拙宅に来られて、大谷古文書に目を通し、二時間程いろいろの質問をして帰られたが、早速、三月七日の朝刊神戸版に、「竹島に日本領の確証」という大見出しで写真入の記事が出たので驚いた。
これは、田中姉が知友の大朝(大阪と思う)新聞記者を通じ、寺尾記者に、竹島由緒の古文書が大谷の家にある事を話したからだった。

  次頁の写真(あまり明瞭に映らないので、本文を青字で別記)は其の時の新聞掲載のものである。

  これがまた古文書との取り組みの励みとなった。(新聞記事はここをクリック)

朝日新聞   昭和二十七年三月七日   金曜日
竹島に日本領の確証(詳しくは新聞をクリック)
  昭和二十九年十二月十七日、突然、外務省神戸出先機関の移民斡旋所長の入江氏が来訪され、竹島問題に関して、大谷古文書の調査をしに外務省の係官が来るので協力してほしいとの要請があった。

  年が明けて三十年一月十二日に、外務省事務官川上健三氏と入江氏が来られ、早速古文書をひろげて調べにはいられた。

  川上事務官は翌日も来られて、参考資料にする為しばらく借用したいと申し出られ、四十三通を持ち帰られた。

  略意を書いた附箋がついていたので調べ易かったと乃書状を頂いたりして、この古文書は八ヶ月後に丁重な礼状と共に送り返され、韓国側が当局の動きに神経を尖らせているので、このたびの調査のことは他言しない様にとのご注意があった。

  以来十年余りがたち昭和四十一年九月に、外務省情報局より川上健三先生の新著「竹島の歴史地理学的研究」が送られてきた。

  あらゆる角度から竹島が研究し尽くされていて、貴重な文献であった。

  「歴史的背景」の中の「文献に現われた松島竹島」および「竹島松島渡海免許」の項に、「池田家文書」と共に、「大谷古文書」が数十頁に亘って引用されていて、先年お貸しした古文書が歴史的資料としてお役に立っている事に少なからぬ満足を覚え乍ら熟読した。

  とくに、問題の竹島(当時の松島)への初渡海の年が、大谷古文書中の阿部四郎五郎と亀山庄左衛門の書状により理解できた経緯が委しく述べてあり、つづらから出た古文書が今日の国際問題の舞台に踊り出た事がいかにも不思議で愉快であった。

  韓国側から見た「歴史上の鬱陵島」の項を読むと、この島は、古くは海賊が占領したり、流刑地に使用したりしたが、波浪高く着岸がむつかしいので、韓国は、李朝の初期から明治初年迄四百五十年の間空島政策をとり放置していた。

この空島にむかって、日本人は海路はるかに押し渡り、文禄の役后は百年間も出漁をつづけていたことが日本史に出ている。
大谷家では、元和四年から元禄九年迄七十八年の間、江戸幕府の許可を得て、堂々と竹島へ渡海し、良材を伐り出し、海鹿(アシカ)を捕獲し、鮑(アワビ)や其の他の漁採作業に従事した。

  其の間、渡海の中継地として松島へも立ち寄り、竹島同様に海鹿や鮑捕りをつづけたのである。
明治に入り、松島と竹島の地名が入れ替わるという複雑な段階を経て、松島には明治三十八年一月付けの日本政府布告で、島根県隠地(隠岐)郡五箇村竹島という地名がつけられ、日本領土である事がはっきりした。
そして、大東亜戦争迄は、隠岐島民が漁業に出かけたり海鹿を捕獲したり、又、他県の業者が島の燐鉱石採取事業を計画したりしている。
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