松島伺い (その1)
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/04/09 23:21 投稿番号: [4549 / 9207]
「唐物の儀、長崎表より渡り候筈のところ、近年、異国人、海上において日本の船と乗り換え候 由、多分は薩州商人どもの働きのおもむきにて、近年、仲買いと 申すものもっぱらこれあり。 これは薬種そのほか積み込み、いずれの湊へも廻船乗りまいり、米金と交易つかまつり候おもむ き相聞こえ、九州筋にては長州の赤間関へ着船、それより北国筋 へ目差し乗り下り候ものは、石州浜田、雲州辺の湊々にて少々抜 け売りいたし、能登輪島へ入津、同所にて薬品そのほか琉球朱も っぱらこれあり」庭番聴聞記(村垣淡路守)
「天保中、の廻船問屋八右衛門といふもの、漁猟に事寄せ、松原浦の沖なる竹島に押渡り、外国人と密商せしこと、粗(あらあら)その風聞ありといへども、未だ其証跡を得ず。因て林蔵を遣て、これを探らしめしに、林蔵垢面へい衣し乞食の姿となりて、浜田に入込、やがて其確証を得て帰り報ぜしかば、幕府因て手を下し、云々。」小宮南梁記
天保6年(1835)11月、薩摩の抜荷(密貿易)船が新潟沖で 難破、村松浜にその残骸が揚がった。その中に清国商人の荷印があり新潟天領遠国奉行所よりより江戸表に早馬したれられた。
薩摩藩の密貿易内偵のために山陰道を通り浜田に立ち寄った隠密間宮某は鄙には希なあまりの浜田港のにぎわいに不審を抱いたという。このため大阪町奉行矢部駿河守の調べを受けることになった廻船問屋、会津屋八右衛門の密貿易が露見した。後でも述べるが公式に残された八右衛門の供述書には「交易」の文字はなく、竹島渡海も「一度のみ」と記されている。
1798年(寛政10年)に生れた八右衛門は、藩の御用を務める「神福丸」の船頭、父清助病死の後を継ぎ、家運の盛り返しと藩主の老中職への猟官のための賄賂で窮迫した浜田藩の財政に寄与するため、鎖国禁制を破って、遠洋に向った。1832年(天保3年)竹嶋と呼ばれた現在の鬱陵島への渡航を、現在の竹島である松嶋行きと偽っていたが、家老岡田頼母、勘定方
橋本三平(三兵衛)年寄役
松井図書らは、八右衛門の申請を黙認する。当時、藩財政は厳しく、このため八右衛門も浜田藩も抜け荷に向けて何とか活路を開き、巨利或いは莫大な運上金を得たい一心であったと思われる。
【続く】
これは メッセージ 1 (scapin_677tx さん)への返信です.
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