Re: “平和ボケ”のお部屋
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2009/08/01 18:50 投稿番号: [16228 / 17759]
現在、国家国旗法が出来て、学校行事の中で教職員が強制的に「君が代」を歌わされるという事態が起こっています。最近の裁判でもこれに対しては国家に有利に働いているというのが実情だと思います。
私自身は、「日の丸」は好きですし、「君が代」も曲は好きですが、歌詞に問題があると思っていて、「我らが代」とか「我が代」とか運動を提唱していたくらいです。実際後になってもう40年ほど前から「民が代」運動みたいなモノが存在したと言うことを知ったときに驚いたモノですが・・・。
しかしそういうことが変わったとしても、問題の本質はそこにはないわけですから、教職員の「君が代強制」に対してはあくまで反対です。
つまり、私たちの持っているはずの「信条や表現の自由」が国家に於いて補償されないという意味で、ここに大きな問題を含んでいると考えるからです。
能動的に何かに対して行動するわけでもなく、ただ、自分の信条に従って歌わないとか起立しないと言うだけの自由も補償されない国家に対して民主主義の根本を揺るがしかねない危機感を感じるからこそ、私は反対の意志を表しているわけです。
おそらくはドラさんもこのことに関しては同意してくださることだと思います。
ところが、これを捕鯨問題に移して考えてみると、
私が以前「公海において、数十万頭存在して、絶滅の危機など全くないことが確認されている鯨に関して、いったい誰がその捕鯨に対して禁止できる権利を持っているというのか、誰も答えることが出来ない」と書きましたが、こういう状況の中で、グリンピースを筆頭にして、それを擁護する「女王様の国達」等は非常に高圧的に反捕鯨運動を繰り広げているわけです。
もう一度言いますが本来反捕鯨の運動に関してはなんの根拠もないまま、ただただ「頭のいい鯨を殺すのはかわいそう」という感情論だけが先走って、たった千頭しか殺していない捕鯨国を非難する根拠にしているにすぎないのです。このことに関して、ご自分の胸にもう一度手を当てて冷静に考えてみるといいと思います。
年間数百万頭もの牛や豚を殺しておきながら、しかしそれも無駄に殺された牛はどのくらいいるか分からない状況で、そのことにはふれることさえしない文化を持つ国の、その口車に乗って、捕鯨に反対しているのが、ドラさん達であるということになぜ気がつかないのかが不思議です。
先日また鯨を食べに行きましたが、私は「鯨の竜田揚げ」がおいしいと思うし、客観的に考えても少なくとも今の先日食べた鯨料理が他の食材と比べて著しくまずいモノであるという認識は出来ません。年間確か400万頭も殺されているといわれている牛肉にもまずいモノとうまいモノがあるのと同じように、鯨にもまずい部所等あるかも知れませんが、そのことで「鯨がまずいから止めてしまえ」としてしまうのはいかにも乱暴な意見だと思います。
要するに、「鯨を殺すなんて野蛮な国民だ」という感情論に安易に乗ることは、これは欧米諸国の「民族差別」に大きく荷担する以外の何物でもありません。「日本人は鯨を殺す野蛮人だ」というなんの根拠もない空虚な国際世論に乗じて、日本人の中の「それを言われるといやな感じになるドラさんのような人たち」を仲間に引き込んで、自分達の倫理観を強引に国際標準化させて、自分たちに反する意見を封じ込めてコントロールしようという意識を感じてしまうのは私だけでしょうか?
この「捕鯨モラトリアム」から始まったと思われる彼らの主張する彼らだけの「グローバリズム」が、たとえば「捕鯨禁止」という形で結実したときに考えられるのは、公海というモノの所有権を独占できうる、もしくは一部の国によってコントロールできうるシステムが出来ると言う前例が出来るということ。
このことは、一つの国家戦略的な意味でのノウハウとして、多くの側面に利用されるのではないだろうか?と危惧してしまいます。
※ 他国の文化を数の力によって強引に封じ込め、自分たちの思うようにコントロールしようとするその行為自体に、もう少し脅威を感じながら注意深い警戒心を持つことが必要だとつくづく感じる今日この頃。
私は今回、ドラさんとの会話の中で見つけたのですが、「死刑モラトリアム」というような言葉もあるとか・・・。
私が捕鯨反対と死刑反対の運動はよく似ているかも知れないと感じたのは、実はあまり根拠のないことでもなかったのではないかと、今更ながらそう感じた私の直感が恐ろしいです。
※「国旗国歌法」の強制というような国家権力の発動に対して反対の意志を持っている人は、同じように自分たちの文化が何者かによって不法に歪められていないかどうかについてもう少し敏感になった方がいいと思います。
私自身は、「日の丸」は好きですし、「君が代」も曲は好きですが、歌詞に問題があると思っていて、「我らが代」とか「我が代」とか運動を提唱していたくらいです。実際後になってもう40年ほど前から「民が代」運動みたいなモノが存在したと言うことを知ったときに驚いたモノですが・・・。
しかしそういうことが変わったとしても、問題の本質はそこにはないわけですから、教職員の「君が代強制」に対してはあくまで反対です。
つまり、私たちの持っているはずの「信条や表現の自由」が国家に於いて補償されないという意味で、ここに大きな問題を含んでいると考えるからです。
能動的に何かに対して行動するわけでもなく、ただ、自分の信条に従って歌わないとか起立しないと言うだけの自由も補償されない国家に対して民主主義の根本を揺るがしかねない危機感を感じるからこそ、私は反対の意志を表しているわけです。
おそらくはドラさんもこのことに関しては同意してくださることだと思います。
ところが、これを捕鯨問題に移して考えてみると、
私が以前「公海において、数十万頭存在して、絶滅の危機など全くないことが確認されている鯨に関して、いったい誰がその捕鯨に対して禁止できる権利を持っているというのか、誰も答えることが出来ない」と書きましたが、こういう状況の中で、グリンピースを筆頭にして、それを擁護する「女王様の国達」等は非常に高圧的に反捕鯨運動を繰り広げているわけです。
もう一度言いますが本来反捕鯨の運動に関してはなんの根拠もないまま、ただただ「頭のいい鯨を殺すのはかわいそう」という感情論だけが先走って、たった千頭しか殺していない捕鯨国を非難する根拠にしているにすぎないのです。このことに関して、ご自分の胸にもう一度手を当てて冷静に考えてみるといいと思います。
年間数百万頭もの牛や豚を殺しておきながら、しかしそれも無駄に殺された牛はどのくらいいるか分からない状況で、そのことにはふれることさえしない文化を持つ国の、その口車に乗って、捕鯨に反対しているのが、ドラさん達であるということになぜ気がつかないのかが不思議です。
先日また鯨を食べに行きましたが、私は「鯨の竜田揚げ」がおいしいと思うし、客観的に考えても少なくとも今の先日食べた鯨料理が他の食材と比べて著しくまずいモノであるという認識は出来ません。年間確か400万頭も殺されているといわれている牛肉にもまずいモノとうまいモノがあるのと同じように、鯨にもまずい部所等あるかも知れませんが、そのことで「鯨がまずいから止めてしまえ」としてしまうのはいかにも乱暴な意見だと思います。
要するに、「鯨を殺すなんて野蛮な国民だ」という感情論に安易に乗ることは、これは欧米諸国の「民族差別」に大きく荷担する以外の何物でもありません。「日本人は鯨を殺す野蛮人だ」というなんの根拠もない空虚な国際世論に乗じて、日本人の中の「それを言われるといやな感じになるドラさんのような人たち」を仲間に引き込んで、自分達の倫理観を強引に国際標準化させて、自分たちに反する意見を封じ込めてコントロールしようという意識を感じてしまうのは私だけでしょうか?
この「捕鯨モラトリアム」から始まったと思われる彼らの主張する彼らだけの「グローバリズム」が、たとえば「捕鯨禁止」という形で結実したときに考えられるのは、公海というモノの所有権を独占できうる、もしくは一部の国によってコントロールできうるシステムが出来ると言う前例が出来るということ。
このことは、一つの国家戦略的な意味でのノウハウとして、多くの側面に利用されるのではないだろうか?と危惧してしまいます。
※ 他国の文化を数の力によって強引に封じ込め、自分たちの思うようにコントロールしようとするその行為自体に、もう少し脅威を感じながら注意深い警戒心を持つことが必要だとつくづく感じる今日この頃。
私は今回、ドラさんとの会話の中で見つけたのですが、「死刑モラトリアム」というような言葉もあるとか・・・。
私が捕鯨反対と死刑反対の運動はよく似ているかも知れないと感じたのは、実はあまり根拠のないことでもなかったのではないかと、今更ながらそう感じた私の直感が恐ろしいです。
※「国旗国歌法」の強制というような国家権力の発動に対して反対の意志を持っている人は、同じように自分たちの文化が何者かによって不法に歪められていないかどうかについてもう少し敏感になった方がいいと思います。
これは メッセージ 1 (light_cavalryman さん)への返信です.
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