“平和ボケ”のお部屋

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Re: 秋の日のヴィオロンの

投稿者: latter_autumn 投稿日時: 2005/11/07 20:54 投稿番号: [12928 / 17759]
>ナチス・ドイツの負けが確定したのは、スターリングラードでの攻防戦
>だったと思います。ここでドイツの一方面軍が壊滅しました。
>(1943年2月2日)
>米英もこの敗北の意味するところをすぐに悟ったと思います。

孫子流に言えば、「ソ連に侵攻した時点でドイツは既に負けていた」と言えます。
チャーチルは、独ソ開戦直後に、これが必然的にドイツの自滅と英ソ連合国の勝利に繋がることを確信し、以下のような皮肉なコメントを残しました。
「我々にとって最も有力な秘密兵器とは、ヒトラーそのものである。」

1942年夏から1943年初めまでの、東部戦線南方方面の戦いとスターリングラード攻防戦は、確かに大きな転回点であり、ドイツ軍は大損害を出して敗れた。
しかし、ここからドイツ軍が一方的に総崩れになった訳ではない。
この後ドイツ軍は、スターリングラードの勝利の余勢に乗って進撃したソ連軍に対し、ハリコフ方面で猛反撃を加え返り討ちにした。
さらにドイツ軍は、1943年春の雪解け・泥濘期の間に再び戦力を盛り返し、1943年夏のクルスク方面で大攻勢作戦を行った。
ドイツ軍が一方的に総崩れになったのは、このクルスクの敗戦の後だった。

>米英は、ソ連がヨーロッパにおける戦争の勝利を独り占めにするのは、
>とても座視してはいられなかったはずです。

それはそうです。
しかしチャーチルは、当初、
「戦禍で荒廃し疲弊したソ連は、戦後暫く国内復興で手一杯になるだろう」
「ソ連の出血を多くした方がよい、米英の分までなるべく多めに肩代わりさせよう」
「ソ連が負けないように援助物資を送りながら、ソ連の出血を座視しよう」
というような考えを抱いていました。

>「ソ連(だけ)が、ドイツに勝つのは困る」と思ったので、ノルマンディー
>に上陸作戦を決行した

スターリングラード方面の激戦がまだ続いていた1942年11月には、米英軍はモロッコ・アルジェリアに上陸し、北アフリカの独伊軍を東西から挟撃する形を作った。
さらにクルスク方面の激戦が続いていた1943年7月には、シチリア島に上陸した。
1943年9月にはイタリア本土上陸。

ノルマンディー作戦は1944年6月。
何で、ドイツにとって大した急所でもない地中海作戦を優先して、より致命的な北フランス上陸を延期したのか。

それは、なるべく米英の出血を少なくしソ連の出血を多くするため、だった。
この米英の目論見は一応達成されたが、米英が悠長に構えている間に、ソ連はドイツを大きく押し返し東欧を攻略する時間的余裕を得た。
米英がソ連に東欧を取らせたくなければ、自らの出血の増加を覚悟した上で、もっと早くに北フランスあるいはバルカンに上陸していればよかった。
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