統帥権
投稿者: nita2 投稿日時: 2005/07/12 19:15 投稿番号: [11030 / 17759]
掻い摘んで、戦争に至るシステムの元凶とされる統帥権の成立について私の見解述べさせていた
だきます。
まずは、維新の後、征韓論を巡って最終的には明治10年の西南戦争に至る、内乱やテロが活発
化します。
この取り締まりに大久保は軍、警察、裁判をもってあたったので、薩摩閥がこれらを動かす権利
を掌握してしまいました。
これに対して、長州閥は陸軍参謀局を設置して山形が局長となり、陸軍の軍令部門を掌握し対抗
します。
その後、薩摩は西南戦争で勢力を弱め、政権も陸軍も徐々に長州閥に掌握されていきます。
そして明治14年、国会の開設を決めるのですが、これを受けて土佐の板垣退助が自由党を結成
します。
自由党は主権在民を唱え、たちまち全国に広がり、一大勢力となり、また各地で急進派が事件を
起こし官憲と衝突します。ここに薩長閥対政党の対立図式が生まれた訳です。
そんな状況の中、長州閥の権力を維持するために常に軍権掌握の中枢である陸軍参謀局は掌握し
ておく必要が生じましたので、天皇の直下におき、政府、議会から不可侵のものとした訳です。
そして、明治22年の憲法には統帥権が盛り込まれます。
さて、時を経て薩長閥が支配する軍部も陸士出身の新世代が中心世代になっていくと当然の如く
薩長閥からの権力奪取に向かいます。
そして結成されたのが、二葉会、一夕会、桜会などの新世代のグループです。
彼らに足りなかったものは武勲だけでしたから満州事変でそれを得ると軍内部の権力はおのずと
彼らに移っていきます。
そして、2.26事件で軍の内部抗争が一掃されると政権掌握に向かいました。
立ちはだかるのは、大正デモクラシーを演出した明治最後の元勲、西園寺公望です。
西園寺は満州事変の時点では既に軍の軍の新世代に抗しようが無いことを認識しており、天皇の
満州事変追求を諌めた人でもありますが、近衛をたて一応は軍の全権掌握に対抗します。
その西園寺も昭和15年11月に亡くなり、軍の暴走を諌められる者もいなくなります。
これは メッセージ 11014 (b598056 さん)への返信です.
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