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報道部のアドバルーン作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/25 19:07 投稿番号: [81 / 2250]
馬淵報道部は中国のデマ宣伝に何とか反撃できるものはないか、考え、
アドバルーンを揚げることにしました。

西岡香織著『報道戦線から見た「日中戦争」』194〜196p

《 アドバルーンも、宣伝戦の新兵器として大活躍したが、
その経緯は、馬淵の『報道戦線』に詳しく記されている。

「報道部では事変勃発と共に、東京市神田区淡路町・銀星座の広告気球を予め購入していたが、
これを利用した最初は、昭和十二年十月二十七日、大場鎮占領の時、上海虹口なる萬歳館六階屋上に於てであった。

上海では、工部局がアドバルーンを禁止していたので、広告用気球は市民もまだこれを知らなかった。

二十六日、大場鎮占領の報を得た所謂砲弾下の報道部では、辻、江島等のタイピスト嬢のほか、
折から萬歳館に泊まり合わせていた放送協会の友安君や堀内敬三君、西村楽天君等が

徹夜して文字網を作製し、翌二十七日午前五時、それっというので上昇の準備をしたが、
誰一人アドバルーンを掲揚した経験者がなく、ああでもないこうでもないと研究しつつ、

ともかくも完全に浮揚させた。

『日軍占領(赤字)大場鎮(黒字)』」

この時のことについて、堀内敬三自身は次の短文を残している。

「大場鎮の陥ちた晩、金子少佐は『さあアドバルーンを揚げよう』と調子づいた。
『よし来た』と多数が報道部の事務所に馳せ向って、夜半から『日軍占領大場鎮』の字を網の目に縫いつけにかかった。

萬歳館の女中さん達も報道部の運転手君たちも、針と糸とを持ってせっせと働いた。
その間に空襲が二度ばかり来たが、平気だった。皆嬉しさに夢中だった。

三時頃から私は放送局の島山技師と二人、萬歳館の屋上でバルーンの組立てにかかった。
懐中電灯の光で説明書を見ながらやるのだから、はかどらない。

そのうちに懐中電灯の光を見て北停車場から小銃を撃ってきた。『とうとう見つけたね』
『まだ逃げないのかね、支那さん、よく粘るなあ』島山君も私も意気軒昂であった。

しかし仕事は中々はかどらない。そのうちに夜があけた。弾丸は来なくなった。
文字の網が出来て運転手君が『わっしょ、わっしょ』と運んで来る。
午前七時、やっとこさで、最初のアドバルーンが虹口の空にあがった。嬉しかった」

(「最初のアドバルーン」堀内敬三、前出『紙弾』所収)

  終戦の翌昭和二十一年末から始まった日本初のクイズ番組、「話の泉」の解答者として
評判をとり、タレントの走りと言われる堀内敬三であるが、
上海事変ではアドバルーンの組み立てに苦労したというのも、面白い話である。

  翌二十八日「日軍到蘇州河」を萬歳館屋上から掲揚し、十一月六日朝には「日軍百萬上陸杭州北岸」を同館上に掲揚した。
「百万」は大軍の意味であるが、「結果的に見て、この文字が一番評判よく、アドバルーン宣伝中の白眉であった」。

また、これを上海西郊に運び、蘇州河対岸の敵前にも掲揚したところ、
「敵は怒ったの怒らないの、六日の午後五時であったが、銃砲の猛射間断なく、

浮揚三十分位にして、惜しいかな撃墜された」。

しかし「この気球浮揚は、邦字紙、外字紙、華字紙、ラジオ等によって大々的に報道され、
敵はこれがために大恐惶を来たし、遂にその退却を早めたとまでいわれている」

  報道部員や職員はこの後も連日のようにアドバルーン造りに励み、
支那軍側の負けても勝ったとするデマ宣伝を押さえ込む効果を挙げた。

まさにアドバルーンは報道部の新兵器となったのである。


新聞記事
〔昭和12年11月8日   東京日日(夕刊)〕   〔蘇州河畔にて六日伊藤(実)特派員発〕

六日、我が上海戦線においては前面の敵の動揺を尻目に全戦線にわたり軍歌の夕を催して、
敵の度胆を奪う豪華陣を布いた。「日本軍百万、杭州湾に上陸す」と大書したアドバルーンが

敵前線の真上、わが○○部隊の屯ろする蘇州河中央造兵廠付近の空に揚がった。・・・
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