1937年12月14日 幕府山で一万五千の捕虜
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/10 18:47 投稿番号: [1962 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
128〜129p
《 揚子江岸の烏龍山砲台の占領に成功する。
次の目標は幕府山砲台の占領であった。幕府山は南京の北方三キロ先に位置する。
揚子江を睥睨
(へいげい)
する、揚子江岸の山である。
南京防衛の観点からすれば、その幕府山要塞は支那軍にとり最後の防衛線であった。
ところが、意外にも支那兵の抵抗は弱かった。
日本側にも戦死者や重傷者が出たものの、抵抗らしい抵抗は見られなかった。
支那兵は白旗を掲げ、続々と投降してきた。
そのときの模様を、 「山田栴二日記」
は、
「他師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ
午前四時半出発、 幕府山砲台ニ向フ、
明ケテ砲台ノ附近ニ到レバ
投降兵莫大ニシテ仕末ニ困ル」
と記録する。
夜が明けて
「莫大」
な投降兵集団に遭遇する。
それが十二月十四日のことであった。
付近の村落は清野作戦のため 「皆敵ノ為ニ焼カレ」 ていた。
そこで山田旅団長は、上元門 (幕府山麓) 郊外に発見された学校に
武装解除後の投降兵を収容した。
数えてみれば、投降兵は一万四七七七名の大集団である。
『南京戦史資料集Ⅲ』 の第六十五連隊両角業作連隊長の
「両角
(もろずみ)
業作手記」
によれば、一万五三〇〇余であった。
いずれにせよ、第六十五連隊の十倍以上にあたる。
「斯
(か)
ク多クテハ殺スモ生カスモ困ッタモノナリ」 とは、
山田旅団長の偽らざる困惑であった。
収容された投降兵は、これが兵士かと思われるくらい、 「服装も種々雑多」 であった。
しかも注意して見ると、南京から逃げてきた非戦闘員の市民も混っていた。
さらに注意して見ると、女兵士、老兵、少年兵までが混在していた。
何も知らない十二三歳の少年が戦場の第一線に立たされていた。
そしてまた、女性も志願して兵士となっていた。そのことが
『南京大虐殺を
記録した皇軍兵士たち − 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
に見える。》
これは メッセージ 1936 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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