大東亜戦争の評価-11
投稿者: sada_goro 投稿日時: 2006/04/02 23:36 投稿番号: [72337 / 95793]
■ パラオの場合
皆さんはパラオ共和国という国をご存知でしょうか。太平洋に浮かぶ小さな島国です。そのパラオの国旗ですが、日の丸とそっくりです。なぜこのようなデザインになったのでしょうか。
ドイツ植民地であったパラオは第一次大戦後、日本の委任統治領となりました。太平洋戦争中はミクロネシア地域の重要拠点となり、多くの日本軍が駐屯していました。そこでの日本は厳しくも、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残し、パラオの人々に大変な信頼を受けました。
パラオの人々は「日本人は厳しかった。しかし我々に農業と、まじめに働くこと、そしてウソをつかないことを教えてくれた。」と今でも口々に日本を語ります。
太平洋戦争末期、アメリカ軍がパラオにも迫り、いよいよ上陸してくるという時に、パラオ人は驚くことに、「我々も日本人と一緒にアメリカ軍と戦う」と決意したと言います。しかし民間人に被害が出ることを懸念した日本はそれを許さず、貴重な船舶を使いパラオ人を全員他の島へ避難させました。そして戦闘が終わり、パラオ人が島へ帰ってくるとそこには玉砕した日本軍の遺体が多数放置されていました。パラオ人は泣きながら丁重に遺体を埋葬しました。そして日本人がいつ来てもいいようにと、墓の掃除を今でも欠かさないと言います。
戦後は日本の変わりにアメリカが統治をすることになりましたが、パラオの人々は日本への感謝の念をずっと忘れることはありませんでした。
1994年、パラオはアメリカからとうとう独立することとなります。それに際して国旗を制定することとなったパラオは、敬愛なる日本の日の丸と同じデザインにすることに決めたのです。黄色い丸は月を、背景は青い海を表します。しかし月が中心より少しずれていることにお気づきでしょうか。これは日の丸と全く同じデザインにしては日本に失礼だからとのパラオの配慮です。そして、独立式典ではパラオ国歌の斉唱の後、君が代の斉唱がなされ、パラオは独立を宣言したのです。アメリカの統治は50年にも及びましたが、パラオの人々の心に残っているのはアメリカの統治が始まる前の50年前に滞在した日本人だったのです。日本が短い統治の間にパラオの人々の心に残したものはそれだけ大きかったのです
新聞に載ったパラオの話。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
また、ブラッディーノーズの近くにあるペリリュー神社には、
米軍ニミッツ元帥による以下の日英2文が記されています。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous
and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
http://www.nanyou.org/html/palau/history.html
●もっと詳しく知りたい人には
名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』展転社
ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社
ビデオ『独立アジアの光-東南アジアの歴史と現代-』Tel 03-3476-5695
アジアの真実
http://ameblo.jp/lancer1/
をお勧めします。
皆さんはパラオ共和国という国をご存知でしょうか。太平洋に浮かぶ小さな島国です。そのパラオの国旗ですが、日の丸とそっくりです。なぜこのようなデザインになったのでしょうか。
ドイツ植民地であったパラオは第一次大戦後、日本の委任統治領となりました。太平洋戦争中はミクロネシア地域の重要拠点となり、多くの日本軍が駐屯していました。そこでの日本は厳しくも、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残し、パラオの人々に大変な信頼を受けました。
パラオの人々は「日本人は厳しかった。しかし我々に農業と、まじめに働くこと、そしてウソをつかないことを教えてくれた。」と今でも口々に日本を語ります。
太平洋戦争末期、アメリカ軍がパラオにも迫り、いよいよ上陸してくるという時に、パラオ人は驚くことに、「我々も日本人と一緒にアメリカ軍と戦う」と決意したと言います。しかし民間人に被害が出ることを懸念した日本はそれを許さず、貴重な船舶を使いパラオ人を全員他の島へ避難させました。そして戦闘が終わり、パラオ人が島へ帰ってくるとそこには玉砕した日本軍の遺体が多数放置されていました。パラオ人は泣きながら丁重に遺体を埋葬しました。そして日本人がいつ来てもいいようにと、墓の掃除を今でも欠かさないと言います。
戦後は日本の変わりにアメリカが統治をすることになりましたが、パラオの人々は日本への感謝の念をずっと忘れることはありませんでした。
1994年、パラオはアメリカからとうとう独立することとなります。それに際して国旗を制定することとなったパラオは、敬愛なる日本の日の丸と同じデザインにすることに決めたのです。黄色い丸は月を、背景は青い海を表します。しかし月が中心より少しずれていることにお気づきでしょうか。これは日の丸と全く同じデザインにしては日本に失礼だからとのパラオの配慮です。そして、独立式典ではパラオ国歌の斉唱の後、君が代の斉唱がなされ、パラオは独立を宣言したのです。アメリカの統治は50年にも及びましたが、パラオの人々の心に残っているのはアメリカの統治が始まる前の50年前に滞在した日本人だったのです。日本が短い統治の間にパラオの人々の心に残したものはそれだけ大きかったのです
新聞に載ったパラオの話。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
また、ブラッディーノーズの近くにあるペリリュー神社には、
米軍ニミッツ元帥による以下の日英2文が記されています。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous
and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
http://www.nanyou.org/html/palau/history.html
●もっと詳しく知りたい人には
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これは メッセージ 72336 (sada_goro さん)への返信です.
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