日本兵の「陣中日誌」②
投稿者: nicchukaidan 投稿日時: 2012/02/25 23:22 投稿番号: [10 / 73]
山田支隊 (第13師団第103旅団) の歩兵第65連隊に属する堀越文雄氏も、こんな陣中日誌を残しています。
〔10月6日〕※ (引用者註 11月6日の誤りと思われる) 帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
〔11月9日〕捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人子供ひとり、これも突かれたり。
(中略)
〔11月20日〕昨夜まで頑強なりし敵も今は退脚 (退却) し、ところどころに敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。まったく作法どおりの斬れ工合なり。刀少しく刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。
敵はほとんど退脚す、残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、断首等をなす。いかりの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生 (ママ) を失うことなし、これすなわち戦場心理ならんか。
(後略)
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P98-99より)
第16師団長中島今朝吾中将の陣中日誌です。
一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片くることヽなしたるも、千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものヽ之が一旦騒擾せば始末に困るので
部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ...<一部省略>
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈[だけ]にて処理せしもの約一万五千、大[太]平門に於ける守備の一中隊が処理せしもの約一三〇〇其他その仙鶴門付近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当たらず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ[カ]処に導きて処理する予定なり
(偕行社「南京戦史資料集資料集Ⅰ」P220 ただし、文面はインターネット上より収集)
第16師団第30旅団 (佐々木支隊) の旅団長佐々木到一少将は、日誌にこう書いています。
この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみで2万以上の敵は解決されている筈である。(中略)
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米もはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P153-154より、ただし原文は「佐々木到一少将私記」)
歩兵第65連隊第2大隊第8中隊の遠藤高明少尉は、16日の陣中日誌にこう書いています。
捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引き出しI (第1大隊) において射殺す。1日2合給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P185より)
山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊の黒須忠信上等兵の陣中日誌によると、以下のとおりです。
午後1時、我が段列より20名は残兵掃湯 (掃討) の目的にて馬風 (幕府) 山方面に向かう。2、3日前捕慮 (捕虜) せし支那兵の一部5千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばがり (ばかり) と憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。
山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お (を) もひひ (し) がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。
帰りし時は午後8時となり、腕は相当疲れていた。
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P186より)
〔10月6日〕※ (引用者註 11月6日の誤りと思われる) 帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
〔11月9日〕捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人子供ひとり、これも突かれたり。
(中略)
〔11月20日〕昨夜まで頑強なりし敵も今は退脚 (退却) し、ところどころに敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。まったく作法どおりの斬れ工合なり。刀少しく刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。
敵はほとんど退脚す、残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、断首等をなす。いかりの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生 (ママ) を失うことなし、これすなわち戦場心理ならんか。
(後略)
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P98-99より)
第16師団長中島今朝吾中将の陣中日誌です。
一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片くることヽなしたるも、千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものヽ之が一旦騒擾せば始末に困るので
部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ...<一部省略>
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈[だけ]にて処理せしもの約一万五千、大[太]平門に於ける守備の一中隊が処理せしもの約一三〇〇其他その仙鶴門付近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当たらず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ[カ]処に導きて処理する予定なり
(偕行社「南京戦史資料集資料集Ⅰ」P220 ただし、文面はインターネット上より収集)
第16師団第30旅団 (佐々木支隊) の旅団長佐々木到一少将は、日誌にこう書いています。
この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみで2万以上の敵は解決されている筈である。(中略)
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米もはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P153-154より、ただし原文は「佐々木到一少将私記」)
歩兵第65連隊第2大隊第8中隊の遠藤高明少尉は、16日の陣中日誌にこう書いています。
捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引き出しI (第1大隊) において射殺す。1日2合給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P185より)
山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊の黒須忠信上等兵の陣中日誌によると、以下のとおりです。
午後1時、我が段列より20名は残兵掃湯 (掃討) の目的にて馬風 (幕府) 山方面に向かう。2、3日前捕慮 (捕虜) せし支那兵の一部5千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばがり (ばかり) と憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。
山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お (を) もひひ (し) がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。
帰りし時は午後8時となり、腕は相当疲れていた。
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P186より)
これは メッセージ 1 (goo さん)への返信です.
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