いわっちさんへ。“民主主義”について
投稿者: chonmage_johney 投稿日時: 2008/05/29 12:50 投稿番号: [18931 / 22816]
こんにちは。
>資料を調べながら・・・だったんで・・・
いや、参考文献や辞書を基に書きこむ作業は、私もしばしば行います。前にもコメントしましたが、誰が見ているか分からない状況の中では、論拠を明らかにするためにも、それに頼らざるを得ないところがあると考えます。確かに、たかが掲示板かも知れませんが、いい加減なことを書くのは、私の場合、性に合わないのです。
>でも、そのときに得た知識も頭に断片的にかけらしか残っていないです・・・だめですね・・。
欠片だけでも残っていればよろしいのではないでしょうか。また思い出す時が来ますって。
さて、
>>・・・全くの独り善がりの投稿になり、不快感を与える結果になります
とは書いたものの、どんなに気を付けて書きこんだところでも、誰もが不愉快にならない表現というのは、基本的に無いと思います。あたかも、用心して小豆を両手ですくい上げた時に、一粒や二粒は零れ落ちるかのように。
この譬え話から、なんちゃって民主主義(デモクラシー)論に繋げます。
>結局、今の民主主義というのは、大雑把にいえば、多数決の原理が基本にあるように思うんですが・・・
そうです。尤も、国によっては、一定の数に達しないと、大統領の拒否権が行使できる所もありますが、デモクラシーは、ご指摘の通り“数の理論”になります。となると、当然に、
>少数派の自由はどうなるのか?
という疑問にぶち当たりますね。「少数の意見も尊重されるべきだ」というのは、数の横暴に対するアンチテーゼとして間違ってはいないのですが、一々聞く耳を立てていたら、それこそ、道路一つ建物一つ造ることもままなりません。
ここで思い出す言葉があります。誰が書いたかは思い出せないのですが、
『カエサルは99人の為に生き、キリストは1人の為に生きた』
政治の世界で敗れた人の為に、前述の譬え話で言うと、零れ落ちた者の為に文学があるのだ。ということですが、救われなかった者への受け皿があるかどうかが、デモクラシーであるか、そうでないかの分水嶺になるのではないかと考えるのです。取りあえず。
いわっちさんが挙げたシナでは、その受け皿が用意されているとは、とても思えないのです。故に、
>あそこは民主主義というのはないのです
という結論になりますね。
>民主主義が絶対だとも思えなくて・・・
戦後、保守論壇で進歩的文化人を斬りに斬りまくった福田恆存氏は、
「民主主義下においては、・・・人々は悪の摘発には熱中するが、善の推進にはそれほどの情熱を持たない。また、弱者や無能者の救済には力を入れるが、強者や有能者に対しては、その瑕瑾すら許そうとぜず、・・・・専ら引きずり降し策に腐心する。・・・・・消極的概念なのである」【 『福田恆存語録 日本への遺言』 文藝春秋 P26より一部抜粋】
と弱点を見抜いています。
とはいえ、現在の政治体制としては、民主主義しか考えられないのも事実であり、必要とされるのは、それを隠れ蓑にした怠惰や利己心、怪しげな正義論、偽善、破壊等を見抜く鋭い目なんだと考えます。
>この先また違った国家の在り方があるのかな・・と。
近代デモクラシーのバックボーンに基督教があるとするならば、反対解釈として、それが背景に無い政治体系となりますね。となれば、可能性があるのはイスラム教国家じゃないでしょうか。ただ、我が国でイスラム国家樹立は絶望的に不可能です。その訳はまたあとで。
>議論と討論とでは違うのでしょうか・・
討論の「討」は、「討つ(うつ)」とも読みますね。手もとにある漢和辞典(角川書店)では、『寸(しゅ)【手】の転音が音を表し、とがめる意の語源(咎−きゅう−)からきている。ことばでとがめる意。すなわち責める意』と書いてあります。
ですから、我流の解釈となりますが、漢字の意味としては、『(相手の)論を討つ』。となり、必然的に論破とかの攻撃的な側面が出てきますね。有り体に申せば、勝ち負けの話になってくると。そしてそれは論争へと姿を変えて行くのでしょうが、前述の福田氏は、民主主義の発達の為には、勝負としての論争が必要だとしています。
議論という熟語の「議」には、そこまでの激しさは含んでいません。前述の漢和辞典では、『やりとりを意味する語源(互)からきている。論を互いにかわす意』とあります。
>資料を調べながら・・・だったんで・・・
いや、参考文献や辞書を基に書きこむ作業は、私もしばしば行います。前にもコメントしましたが、誰が見ているか分からない状況の中では、論拠を明らかにするためにも、それに頼らざるを得ないところがあると考えます。確かに、たかが掲示板かも知れませんが、いい加減なことを書くのは、私の場合、性に合わないのです。
>でも、そのときに得た知識も頭に断片的にかけらしか残っていないです・・・だめですね・・。
欠片だけでも残っていればよろしいのではないでしょうか。また思い出す時が来ますって。
さて、
>>・・・全くの独り善がりの投稿になり、不快感を与える結果になります
とは書いたものの、どんなに気を付けて書きこんだところでも、誰もが不愉快にならない表現というのは、基本的に無いと思います。あたかも、用心して小豆を両手ですくい上げた時に、一粒や二粒は零れ落ちるかのように。
この譬え話から、なんちゃって民主主義(デモクラシー)論に繋げます。
>結局、今の民主主義というのは、大雑把にいえば、多数決の原理が基本にあるように思うんですが・・・
そうです。尤も、国によっては、一定の数に達しないと、大統領の拒否権が行使できる所もありますが、デモクラシーは、ご指摘の通り“数の理論”になります。となると、当然に、
>少数派の自由はどうなるのか?
という疑問にぶち当たりますね。「少数の意見も尊重されるべきだ」というのは、数の横暴に対するアンチテーゼとして間違ってはいないのですが、一々聞く耳を立てていたら、それこそ、道路一つ建物一つ造ることもままなりません。
ここで思い出す言葉があります。誰が書いたかは思い出せないのですが、
『カエサルは99人の為に生き、キリストは1人の為に生きた』
政治の世界で敗れた人の為に、前述の譬え話で言うと、零れ落ちた者の為に文学があるのだ。ということですが、救われなかった者への受け皿があるかどうかが、デモクラシーであるか、そうでないかの分水嶺になるのではないかと考えるのです。取りあえず。
いわっちさんが挙げたシナでは、その受け皿が用意されているとは、とても思えないのです。故に、
>あそこは民主主義というのはないのです
という結論になりますね。
>民主主義が絶対だとも思えなくて・・・
戦後、保守論壇で進歩的文化人を斬りに斬りまくった福田恆存氏は、
「民主主義下においては、・・・人々は悪の摘発には熱中するが、善の推進にはそれほどの情熱を持たない。また、弱者や無能者の救済には力を入れるが、強者や有能者に対しては、その瑕瑾すら許そうとぜず、・・・・専ら引きずり降し策に腐心する。・・・・・消極的概念なのである」【 『福田恆存語録 日本への遺言』 文藝春秋 P26より一部抜粋】
と弱点を見抜いています。
とはいえ、現在の政治体制としては、民主主義しか考えられないのも事実であり、必要とされるのは、それを隠れ蓑にした怠惰や利己心、怪しげな正義論、偽善、破壊等を見抜く鋭い目なんだと考えます。
>この先また違った国家の在り方があるのかな・・と。
近代デモクラシーのバックボーンに基督教があるとするならば、反対解釈として、それが背景に無い政治体系となりますね。となれば、可能性があるのはイスラム教国家じゃないでしょうか。ただ、我が国でイスラム国家樹立は絶望的に不可能です。その訳はまたあとで。
>議論と討論とでは違うのでしょうか・・
討論の「討」は、「討つ(うつ)」とも読みますね。手もとにある漢和辞典(角川書店)では、『寸(しゅ)【手】の転音が音を表し、とがめる意の語源(咎−きゅう−)からきている。ことばでとがめる意。すなわち責める意』と書いてあります。
ですから、我流の解釈となりますが、漢字の意味としては、『(相手の)論を討つ』。となり、必然的に論破とかの攻撃的な側面が出てきますね。有り体に申せば、勝ち負けの話になってくると。そしてそれは論争へと姿を変えて行くのでしょうが、前述の福田氏は、民主主義の発達の為には、勝負としての論争が必要だとしています。
議論という熟語の「議」には、そこまでの激しさは含んでいません。前述の漢和辞典では、『やりとりを意味する語源(互)からきている。論を互いにかわす意』とあります。
これは メッセージ 18929 (iwacchi1960 さん)への返信です.
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