超亀>「二君に仕えず」
投稿者: saito_kijinmaru_hajime 投稿日時: 2007/08/07 23:01 投稿番号: [13944 / 22816]
大変、ご無沙汰しております。
今やROM専に身を落としたペルソナでございやす。
今日は久々に早く帰ってこれたんで、すっごく前のカキコですが、事実関係に若干の誤りがあるのでレスをさせて頂きます。
>明治に入ってからは、今で言う警察庁警視に転じていた元会津藩若年寄佐川官兵衛に抜刀隊として西南戦争に赴くよう説得されるも「二君に仕えず」とこれを固辞。
>しかし、再三再四の説得に折れてついに参戦。
>佐川は戦死するも不死身の斉藤はまたも生き残っています。
佐川官兵衛をはじめとする旧会津藩士たちが警視庁へ奉職するようになったのは、西郷隆盛が征韓論に敗れたことが原因です。
当時の警視庁には約3000人の巡査がいましたが、このうち2000人ほどが薩摩藩士で、西郷が帰郷するのに合わせてほとんどが職場を離脱してしまい、大幅な人手不足になってしまいました。
政府は大慌てで、人員補充に旧賊軍の会津をはじめとする列藩同盟の藩士から巡査を募りました。
そこで、大警視:川路利行は会津に赴き、佐川官兵衛を口説いたものの、佐川は「二君に仕えず」と頑強に断りましたが、斗南に残って苦しんでいる藩士たちを救ってやりたいという気持ちもあり、川路の説得に応じたのです。
佐川は旧藩士約300名を連れて上京した折、松平容保に会ってそのことを報告した後、藤田五郎(斎藤一)を訪ねて経緯を話し、説得された藤田も警視庁へ奉職することになったのです。
尚、藤田五郎が東伏見宮率いる「新選旅団」の一員として西南戦争に赴くようにとの下命があったのは、佐川官兵衛が戦死したのちであり、官軍抜刀隊が編成されたのも佐川の死後だと記憶しています。
余談ですが、藤田五郎が抜刀隊として参戦するにあたり、会津開城の際に西軍軍監として錦旗を擁して乗り込んできた、幕末の京都時代からの仇敵−桐野利秋(人斬り半次郎こと中村半次郎)が、西南戦争では逆賊として旧会津藩士たちから追討される立場になったことに無常の喜びを感じたとか…(無理もないことだと思います)。
ちなみに、藤田五郎という名前は、青森県五戸村で斎藤一と高木時尾との婚礼の際、媒酌した松平容保から賜ったもので、斎藤はこの時をもって正式に会津藩士となりました。
これは メッセージ 13414 (nazeda1777 さん)への返信です.
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