Re: お受験(リラの総論)
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2006/10/30 19:53 投稿番号: [10419 / 22816]
こんばんは。
>・学校の先生は‘学問を教えてやってる’
・塾の先生は‘学問を教えさせてもらってる’
の意識の差があると思います。
この、
>・学校の先生は‘学問を教えてやってる’
というのが公立の学校に限ればまったくおっしゃる通りですね。彼らの「身分規定」はあくまでも公務員ですしそれを悪用している(「公務員だから法律に書き記されている以上のことをする必要はない」って)教師も逆に熱心な組合員のなかに居ますから。
>でも、そこの所はフィフティ・フィフティとすれば、望んで教壇に立つ以上やはり教師の質の問題も問われても仕方が無いと思います。
たしかに。
愚弟にしろ親類どもにしろ自分の意思で教師になったのですから、どれだけ忙しかろうと父兄対策が難しかろうとそれは「自己責任」です。(どーしても嫌なら辞めて転職すればいいのですから)
>今リアルタイムで親、教師をやってる世代はどちらも戦後教育で育った世代。(例外もあるかも知れませんが)
なので、究極の責任を問えば‘その親・教師を育てた世代の失敗’の結果が今の教育問題の根底にあるのでは、と考えます。
実は
>究極の責任を問えば‘その親・教師を育てた世代の失敗’の結果
というご指摘はもっとも根底にあるのではないか、と思います。
ただ、チョビヒゲさんと私はおそらく同世代(もし違ったらごめんなさい)でしょう。私たちが高校生までの間にわれわれの親たちがPTAに出席して
「朝早く起きるよう指導してください」
だの、
「さっさとお風呂に入るように言ってやってください」
だのと担任に申し出ているシーンを想像お出来になります?
私は、
>その親・教師を育てた世代の失敗’の結果
のさらに後に再度の教育(親にしろ教師にしろ教育行政にしろ社会全体にしろ)の低下があったような気がするのです。
私は本来‘師’というものは弟子の側が選ぶべきものだと思っているんですよ。(そうでなきゃ、孔子に死ぬまで従った顔回らや釈尊の弟子たちやイエス・キリストの死後改心して伝道に励んだ連中なんて出てこないでしょう)
だから、根本的には集めた生徒を数分けして任意の先生をあてがうという仕組みそのものが「教育」の名に値しないのかもしれない。その意味では、生徒が先生を選べる塾の方が(たとえそれが受験対策用のものであっても)よっぽど「教育」らしいのかもしれません。
>① 従来通り、文系・理系問わず全ての主要科目を必修で履修
② 大学のような単位制を広く導入して、理系・文系の区別を明確にして履修
これを、各高校で方針を明文化して、受験の際に親子で選別をする。
今の、とにかく「大学に合格すること」が最大公約数の目的である高校までの体制では圧倒的に
>②
を選択する親子が多くなるでしょうね。
それはそれで
「なんのための学校制度か」
という目的が明確化されて教師側の負担は少なくなるかもしれません。
>②
ならば「生活指導」なんてしなくて良いし自分の教える教科を理解させることに集中出来るのですから。その意味では「教える技術」そのものの腕は上がるでしょう。(教師の「人格」は問われないわけですから問題教師はいよいよ増加するかもしれないという気はしますが)
結局、私も
>二択しか無い
と思っています。
1)高校の教師にまで自分の子供の朝起きやお風呂に入る時間まで指導してもらうことを求める親たちを容認する。
2)高校教師には完全なるプロフェッショナル性のみを求め塾の教師化することを是とする。
2)の問題点は↑に書きましたが1)を選ぶとしたら究極中学校を卒業して高校進学の意思がある子供たちは全部親もとから引き離しそれこそ全寮制の学校に入れてしまう方がいいのではないか、という気がします。それぞれの親子の間ではどういう方針でその後の3年間を送らせる方針の学校か、だけを選べば良い、と。
>学ぶって事は生涯学習…今、高校の授業を受講してみたいです。
成人も社会人枠で、駄目でしょうか、ねぇ。^^
実は私は英語が大の苦手で(もちろん理数系はもっと苦手ですけど)学生時代は最低ラインのところをさすらっていました。それが今、あちこちのサークルや地もとの大学の生涯教育事業の一環に顔を出して必死に英語と取っ組み合いをしています。
結局はどう教育行政をいじっても
>学びたくなった時が理解できる時かな
というのがもっとも切実な真実のような気がするんですよねぇ。
>・学校の先生は‘学問を教えてやってる’
・塾の先生は‘学問を教えさせてもらってる’
の意識の差があると思います。
この、
>・学校の先生は‘学問を教えてやってる’
というのが公立の学校に限ればまったくおっしゃる通りですね。彼らの「身分規定」はあくまでも公務員ですしそれを悪用している(「公務員だから法律に書き記されている以上のことをする必要はない」って)教師も逆に熱心な組合員のなかに居ますから。
>でも、そこの所はフィフティ・フィフティとすれば、望んで教壇に立つ以上やはり教師の質の問題も問われても仕方が無いと思います。
たしかに。
愚弟にしろ親類どもにしろ自分の意思で教師になったのですから、どれだけ忙しかろうと父兄対策が難しかろうとそれは「自己責任」です。(どーしても嫌なら辞めて転職すればいいのですから)
>今リアルタイムで親、教師をやってる世代はどちらも戦後教育で育った世代。(例外もあるかも知れませんが)
なので、究極の責任を問えば‘その親・教師を育てた世代の失敗’の結果が今の教育問題の根底にあるのでは、と考えます。
実は
>究極の責任を問えば‘その親・教師を育てた世代の失敗’の結果
というご指摘はもっとも根底にあるのではないか、と思います。
ただ、チョビヒゲさんと私はおそらく同世代(もし違ったらごめんなさい)でしょう。私たちが高校生までの間にわれわれの親たちがPTAに出席して
「朝早く起きるよう指導してください」
だの、
「さっさとお風呂に入るように言ってやってください」
だのと担任に申し出ているシーンを想像お出来になります?
私は、
>その親・教師を育てた世代の失敗’の結果
のさらに後に再度の教育(親にしろ教師にしろ教育行政にしろ社会全体にしろ)の低下があったような気がするのです。
私は本来‘師’というものは弟子の側が選ぶべきものだと思っているんですよ。(そうでなきゃ、孔子に死ぬまで従った顔回らや釈尊の弟子たちやイエス・キリストの死後改心して伝道に励んだ連中なんて出てこないでしょう)
だから、根本的には集めた生徒を数分けして任意の先生をあてがうという仕組みそのものが「教育」の名に値しないのかもしれない。その意味では、生徒が先生を選べる塾の方が(たとえそれが受験対策用のものであっても)よっぽど「教育」らしいのかもしれません。
>① 従来通り、文系・理系問わず全ての主要科目を必修で履修
② 大学のような単位制を広く導入して、理系・文系の区別を明確にして履修
これを、各高校で方針を明文化して、受験の際に親子で選別をする。
今の、とにかく「大学に合格すること」が最大公約数の目的である高校までの体制では圧倒的に
>②
を選択する親子が多くなるでしょうね。
それはそれで
「なんのための学校制度か」
という目的が明確化されて教師側の負担は少なくなるかもしれません。
>②
ならば「生活指導」なんてしなくて良いし自分の教える教科を理解させることに集中出来るのですから。その意味では「教える技術」そのものの腕は上がるでしょう。(教師の「人格」は問われないわけですから問題教師はいよいよ増加するかもしれないという気はしますが)
結局、私も
>二択しか無い
と思っています。
1)高校の教師にまで自分の子供の朝起きやお風呂に入る時間まで指導してもらうことを求める親たちを容認する。
2)高校教師には完全なるプロフェッショナル性のみを求め塾の教師化することを是とする。
2)の問題点は↑に書きましたが1)を選ぶとしたら究極中学校を卒業して高校進学の意思がある子供たちは全部親もとから引き離しそれこそ全寮制の学校に入れてしまう方がいいのではないか、という気がします。それぞれの親子の間ではどういう方針でその後の3年間を送らせる方針の学校か、だけを選べば良い、と。
>学ぶって事は生涯学習…今、高校の授業を受講してみたいです。
成人も社会人枠で、駄目でしょうか、ねぇ。^^
実は私は英語が大の苦手で(もちろん理数系はもっと苦手ですけど)学生時代は最低ラインのところをさすらっていました。それが今、あちこちのサークルや地もとの大学の生涯教育事業の一環に顔を出して必死に英語と取っ組み合いをしています。
結局はどう教育行政をいじっても
>学びたくなった時が理解できる時かな
というのがもっとも切実な真実のような気がするんですよねぇ。
これは メッセージ 10412 (drchobihige さん)への返信です.
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