宮沢賢治のビヂテリアン大祭_20
投稿者: capt_paul_watson 投稿日時: 2008/04/01 20:55 投稿番号: [18722 / 63339]
「私はビヂテリアン諸氏の主張に対して二個条の疑問がある。
第一植物性食品の消化率が動物性食品に比して著しく小さいこと。尤も動物性食品には含水炭素が殆んどないからこれは当然植物から採らなければならない。然しながらもし蛋白質と脂肪とについて考へるならば何といっても植物性のものは消化が悪い。単に分析表を見て牛肉と落花生と営養価が同じだと云って牛肉の代りにそっくり豆を喰べるといふわけにはいかない。人によっては植物蛋白を殆んど消化しないぢゃないかと思はれることもあるのだ。ビヂテリアン諸氏は之等のことは充分ご承知であらうが尚之を以て多くの病弱者や老衰者並に嬰児にまで及ぼさうとするのはどう云ふものであらうか。
第二は植物性食品はどう考へても動物性食品より美味しくない。これは何としても否定することができない。元来食事はたゞ営養をとる為のものでなく又一種の享楽である。享楽と云ふよりは欠くべからざる精神爽快剤〔レフレツシユメント〕である。労働に疲れ種々の患難に包まれて意気銷沈した時には或は小さな歌謡を口吟む、談笑する音楽を聴く観劇や小遠足にも出ることが大へん効果あるやうに食事も又一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減ずると思ふ。殊に愉快に食べたものならば実際消化もいゝのだ。これをビヂテリアン諸氏はどうお考であるか伺ひたい。」
大へん温和しい論旨でしたので私たちは実際本気に拍手しました。すると私たちの席から三人ばかり祭司次長の方へ手をあげて立った人がありましたが祭司次長は一番前の老人を招きました。その人は白髯でやはり牧師らしい黒い服装をしてゐましたが壇に昇って重い調子で答へたのでした。
「只今の御質疑に答へたいと存じます。
植物性の脂肪や蛋白質の消化があまりよくないことは明かであります。さればといって甚不良なのではなく、たゞ動物質の食品に比して幾分劣るといふのであります。全然植物性蛋白や脂肪を消化しないといふ人はまあありますまい、あるとすればその人は又動物性の蛋白や脂肪も消化しないのです。さてどう云ふわけで植物性のものが消化がよくないかと云へば蛋白質の方はどうもやっぱりその蛋白質分子の構造によるやうでありますが脂肪の消化率の少いのはそれが多く繊維素の細胞壁に包まれてゐる関係のやうであります。どちらも次第に菜食になれて参りますと消化もだんだん良くなるのであります。色々実験の成績もございますから后でご覧を願ひます。又病弱者老衰者嬰児等の中には全く菜食ではいけない人もありませう、私どもの派ではそれらに対してまで菜食を強ひやうと致すのではありません。たゞなるべく動物互に相喰むのは決して当然のことでない何とかしてさうでなくしたいといふ位の意味であります。尤も老人病弱者にても若し肉食を嫌ふものがあれば之に適するやうな消化のいゝ食品をつくる事に就ては私共只今充分努力を致して居るのであります。仮令ば蛋白質をば少しく分解して割合簡単な形の消化し易いものを作る等であります。
第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分は奪はれるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。なるほど普通混食をしてゐるときは野菜は肉類より美味しくないのですが、けれどももし肉類を食べるときその動物の苦痛を考へるならば到底美味しくはなくなるのであります。従って無理に食べても消化も悪いのであります。勿論菜食を一年以上もしますなれば仲々肉類は不愉快な臭や何かありまして好ましくないのであります。元来食物の味といふものはこれは他の感覚と同じく対象よりはその感官自身の精粗によるものでありまして、精粗といふよりは善悪によるものでありまして、よい感官はよいものを感じ悪い感官はいゝものも悪く感ずるのであります。同じ水を呑んでも徳のある人とない人とでは大へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべてゐる修道院の聖者たちにはパンの中の糊精や蛋白質酵素単糖類脂肪などみな微妙な味覚となって感ぜられるのであります。もしパンがライ麦のならばライ麦のいゝ所を感じて喜びます。これらは感官が静寂になってゐるからです。水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、又川の柔らかな水みなしづかにそれを享楽することができるのであります。これらは感官が澄んで静まってゐるからです。ところが感官が荒さんで来るとどこ迄でも限りなく粗く悪くなって行きます。まあ大低パンの本統の味などはわからなくなって非常に多くの調味料を用ひたりします。則ち享楽は必らず肉食にばかりあるのではない。寧ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食にあるといふことを申しあげるのであります。」
第一植物性食品の消化率が動物性食品に比して著しく小さいこと。尤も動物性食品には含水炭素が殆んどないからこれは当然植物から採らなければならない。然しながらもし蛋白質と脂肪とについて考へるならば何といっても植物性のものは消化が悪い。単に分析表を見て牛肉と落花生と営養価が同じだと云って牛肉の代りにそっくり豆を喰べるといふわけにはいかない。人によっては植物蛋白を殆んど消化しないぢゃないかと思はれることもあるのだ。ビヂテリアン諸氏は之等のことは充分ご承知であらうが尚之を以て多くの病弱者や老衰者並に嬰児にまで及ぼさうとするのはどう云ふものであらうか。
第二は植物性食品はどう考へても動物性食品より美味しくない。これは何としても否定することができない。元来食事はたゞ営養をとる為のものでなく又一種の享楽である。享楽と云ふよりは欠くべからざる精神爽快剤〔レフレツシユメント〕である。労働に疲れ種々の患難に包まれて意気銷沈した時には或は小さな歌謡を口吟む、談笑する音楽を聴く観劇や小遠足にも出ることが大へん効果あるやうに食事も又一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減ずると思ふ。殊に愉快に食べたものならば実際消化もいゝのだ。これをビヂテリアン諸氏はどうお考であるか伺ひたい。」
大へん温和しい論旨でしたので私たちは実際本気に拍手しました。すると私たちの席から三人ばかり祭司次長の方へ手をあげて立った人がありましたが祭司次長は一番前の老人を招きました。その人は白髯でやはり牧師らしい黒い服装をしてゐましたが壇に昇って重い調子で答へたのでした。
「只今の御質疑に答へたいと存じます。
植物性の脂肪や蛋白質の消化があまりよくないことは明かであります。さればといって甚不良なのではなく、たゞ動物質の食品に比して幾分劣るといふのであります。全然植物性蛋白や脂肪を消化しないといふ人はまあありますまい、あるとすればその人は又動物性の蛋白や脂肪も消化しないのです。さてどう云ふわけで植物性のものが消化がよくないかと云へば蛋白質の方はどうもやっぱりその蛋白質分子の構造によるやうでありますが脂肪の消化率の少いのはそれが多く繊維素の細胞壁に包まれてゐる関係のやうであります。どちらも次第に菜食になれて参りますと消化もだんだん良くなるのであります。色々実験の成績もございますから后でご覧を願ひます。又病弱者老衰者嬰児等の中には全く菜食ではいけない人もありませう、私どもの派ではそれらに対してまで菜食を強ひやうと致すのではありません。たゞなるべく動物互に相喰むのは決して当然のことでない何とかしてさうでなくしたいといふ位の意味であります。尤も老人病弱者にても若し肉食を嫌ふものがあれば之に適するやうな消化のいゝ食品をつくる事に就ては私共只今充分努力を致して居るのであります。仮令ば蛋白質をば少しく分解して割合簡単な形の消化し易いものを作る等であります。
第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分は奪はれるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。なるほど普通混食をしてゐるときは野菜は肉類より美味しくないのですが、けれどももし肉類を食べるときその動物の苦痛を考へるならば到底美味しくはなくなるのであります。従って無理に食べても消化も悪いのであります。勿論菜食を一年以上もしますなれば仲々肉類は不愉快な臭や何かありまして好ましくないのであります。元来食物の味といふものはこれは他の感覚と同じく対象よりはその感官自身の精粗によるものでありまして、精粗といふよりは善悪によるものでありまして、よい感官はよいものを感じ悪い感官はいゝものも悪く感ずるのであります。同じ水を呑んでも徳のある人とない人とでは大へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべてゐる修道院の聖者たちにはパンの中の糊精や蛋白質酵素単糖類脂肪などみな微妙な味覚となって感ぜられるのであります。もしパンがライ麦のならばライ麦のいゝ所を感じて喜びます。これらは感官が静寂になってゐるからです。水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、又川の柔らかな水みなしづかにそれを享楽することができるのであります。これらは感官が澄んで静まってゐるからです。ところが感官が荒さんで来るとどこ迄でも限りなく粗く悪くなって行きます。まあ大低パンの本統の味などはわからなくなって非常に多くの調味料を用ひたりします。則ち享楽は必らず肉食にばかりあるのではない。寧ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食にあるといふことを申しあげるのであります。」
これは メッセージ 18721 (capt_paul_watson さん)への返信です.
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