宮沢賢治のビヂテリアン大祭_19
投稿者: capt_paul_watson 投稿日時: 2008/04/01 20:54 投稿番号: [18721 / 63339]
「前論士は仏教徒として菜食主義を否定し肉食論を唱へたのでありますが遺憾乍ら私は又敬虔なる釈尊の弟子として前論士の所説の誤謬を指摘せざるを得ないのであります。先ず豫め茲で述べなければならないことは前論士は要するに仏教特に腐敗せる日本教権に対して一種骨董的好奇心を有するだけで決して仏弟子でもなく仏教徒でもないといふことであります。これその演説中数多如来正遍知に対してあるべからざる言辞を弄したるによって明らかである。特にその最后の言を見よ
地下の釈迦も定めし迷惑であらうと
これ何たる言であるか
何人か如来を信ずるものにしてこれを地下にありといふものありや
我等は決して斯の如き仏弟子の外皮を被り貢高邪曲の内心を有する悪魔の使徒を許すことはできないのである。見よ、彼は自らの芥子の種子ほどの智識を以てかの無上土を測らうとする、その論を更に今私は繰り返すだも恥づる処であるが実証の為にこれを指摘するならば彼は斯う云ってゐる。クリスト教国に生れて仏教を信ずる所以はどうしても仏教が深遠だからであると。クリスト教信者諸氏、処を換へて次の如き命題を諸氏は許容するか、仏教国に生れてクリスト教を信ずる所以はどうしてもクリスト教が深遠だからであると。諸君はその軽薄に不快を禁じ得ないだらう。私から云ふならば前論士の如きにいづれの教理が深遠なるや見当も何もつくものではないのである。次に前論士は吾等の世界に於ける善について述べられた。この世界に行はるゝ吾等の善なるものは畢竟根のない木であると、これは恐らくは如来のみ力を受けずして善はあることないといふ意味であらう私もさう信ずる。その次にこれは斯うなればよろしいとかこれはかうでなければいけないとかそんなものは何にもならない、とこれも私は如来のみ旨によらずして我等のみの計らひにてはさうであると思ふ。前論士も又その意味で云はれたやうである。但したゞ速かにかの西方の覚者に帰せよと、これは仏教の中に於て色々諍論のある処である。今はこれを避ける。たゞ我等仏教徒はまづ釈尊の所説の記録仏経に従ふといふことだけを覚悟しやう。仏経に従ふならば五種浄肉は修業未熟のものにのみ許されたこと枴迦経に明かである。これとても最后涅槃経中には今より以後汝等仏弟子の肉を食ふことを許さずとされてゐる。その五種浄肉とても前論士の云はれた如き余り残忍なる行為によらずしてといふごとき簡単なるものではない。仏教中の様々の食制に関する考は他に誰か述べられる予定があったやうであるから茲には之を略する。但し最后に前論士は釈尊の終りに受けられた供養が豚肉であるといふ、何といふ間違ひであるか豚肉ではない蕈の一種である。サンスクリットの両音相類似する所から軽卒にもあのやうな誤りを見たのである。茲に於てか私は前論士の結論を以て前論士に酬へる。仏教徒諸君
釈迦を見ならへ
釈迦の相似形となれ
釈迦の諸徳をみなその二万分一
五万分一
或は二十万分一の縮尺に於て
之を習修せよ。あゝこの語気の軽薄なることよ。私は之を自ら言ひて更にそを口にした事を恥じる。
私は次に宗教の精神より肉食しないことの当然を論じやうと思ふ。キリスト教の精神は一言にして云はゞ神の愛であらう。神天地をつくり給ふたとのつくるといふやうな語は要するにわれわれに対する一つの譬諭である、表現である。マットン博士のやうに誤った摂理論を出さなくてもよろしい。畢竟は愛である。あらゆる生物に対する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然のことであらう。
仏教の精神によるならば慈悲である、如来の慈悲である完全なる智慧を具へたる愛である 仏教の出発点は一切の生物がこのやうに苦しくこのやうにかなしい我等とこれら一切の生物と諸共にこの苦の状態を離れたいと斯う云ふのである。その生物とは何であるか、そのことあまりに深刻にして諸氏の胸を傷つけるであらうがこれ真理であるから避け得ない、率直に述べやうと思ふ。総ての生物はみな無量の劫〔カルバ〕の昔から流転に流転を重ねて来た。流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあたりその二つを見る。一つのたましひはある時は人を感ずる。ある時は畜生、則ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のたましひと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。それらが互にはなれ又生を隔ててはもうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまはりの生物はみな永い間の親子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろしいと思ふだらう。恐ろしいまでこの世界は真剣な世界なのだ。私はこれだけを述べやうと思ったのである。」
私は次に宗教の精神より肉食しないことの当然を論じやうと思ふ。キリスト教の精神は一言にして云はゞ神の愛であらう。神天地をつくり給ふたとのつくるといふやうな語は要するにわれわれに対する一つの譬諭である、表現である。マットン博士のやうに誤った摂理論を出さなくてもよろしい。畢竟は愛である。あらゆる生物に対する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然のことであらう。
仏教の精神によるならば慈悲である、如来の慈悲である完全なる智慧を具へたる愛である 仏教の出発点は一切の生物がこのやうに苦しくこのやうにかなしい我等とこれら一切の生物と諸共にこの苦の状態を離れたいと斯う云ふのである。その生物とは何であるか、そのことあまりに深刻にして諸氏の胸を傷つけるであらうがこれ真理であるから避け得ない、率直に述べやうと思ふ。総ての生物はみな無量の劫〔カルバ〕の昔から流転に流転を重ねて来た。流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあたりその二つを見る。一つのたましひはある時は人を感ずる。ある時は畜生、則ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のたましひと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。それらが互にはなれ又生を隔ててはもうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまはりの生物はみな永い間の親子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろしいと思ふだらう。恐ろしいまでこの世界は真剣な世界なのだ。私はこれだけを述べやうと思ったのである。」
これは メッセージ 18720 (capt_paul_watson さん)への返信です.
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