革命か分断かイラクのパレスチナ化の真相②
投稿者: imonoyamashotengai 投稿日時: 2006/05/05 02:46 投稿番号: [91179 / 118550]
ジャファリが所属したダアワ党ロンドン支部は、湾岸戦争以降党活動の中心で
あったダアワ党テヘラン支部と政治方向を巡って内部対立を生じ、1990年代末
以降ロンドン支部とダマスカス支部が党の主導権を握ってイランと距離を置いた
ダアワ党は、水面下で米英政府と交渉を持ってはいたものの、
イラク戦争開戦まで、軍事攻撃と米軍の威を借りた政権交替に反対していた。
「シーア派代表としてのシーア派イスラーム主義政党」という
位置づけに対して、ダアワ党を始めとするイスラーム主義政党は、反発した。
イスラーム主義者にとって、イスラーム主義は
シーア派社会にのみ適用されるべき思想ではなく、広くイスラーム社会全体、
つまりイラク社会全体に適用されるものだとの観点から、
「シーア派」社会のみの政党として認識されることに抵抗を示したのである。
SCIRIの「シーア派」限定性は、ダアワ党との
組織構成上の相違に起因するとも考えられる。
ダアワ党は、政党政党成立前、その構成員の一部がスンナ派のイスラーム主義
政党であるイスラーム解放党やムスリム同胞団に所属していたという経験を持つ
初期においてはスンナ派党員もダアワ党に加盟していたとの説もあり、
超宗派性を持つ。
ダアワ党は、党員及び幹部に、非ウラマーを多く持ち、
バグダードやバスラなどの都市部青年層での活動に一定の基礎を持つが、
SCIRIはウラマーの関与度が高い。
SCIRIにとっては、シーア派聖地という「一地域」としてのシーア派社会が
最も重要であるといえるだろう。
<イラク・ナショナリズムか、「有力者の手打ち」か>
都市青年層に比重を置くダアワ党とウラマー中心のSCIRIという差異は、
実はサドル潮流とSCIRIとの間に、より鮮明に見られる。
「イラク人であること」よりも、
「ナジャフ・カルバラで学んだウラマーとの関係」が
むしろ重要な要素を占める海外亡命組のSCIRIに対して、
純粋国内培養のサドル潮流は「イラク人としてイラクに生まれ育った」ことを
前面に押し出して、対抗意識を燃やしてきた。
特にサドル家とハキーム家という、
それぞれの組織の創立者のウラマー名家同士の対立も反映されている。
国内での大衆的支持は、イラク戦争直後から
国内組イスラーム主義組織にむしろ集まった。
特にサドル潮流が魅了したのは、イラン・イラク戦争から始まってイラク戦争に
至る戦時にも関わらず、そしてフセイン政権の圧政下にも関わらず国内に留まり
自分達の「時」が来るのを待ちわびていた「持たざる人々」であった。
それは主として都市部貧困地域の青年層であったが、サドル潮流の指導者である
ムクタダ・サドルの歯に衣着せぬ反米的言動、権威に対する反抗は、
彼自身の若さと相まって、特に戦後の不満層を代弁することとなったのである。
国内勢力であるサドル潮流は、亡命期間の長かったダアワ党に対しても、
批判的姿勢をとっている。しかしSCIRIに比較して、
サドル潮流のダアワ党への一定の「信頼」は明らかであろう。
サドル潮流の反米武装抵抗運動が激化した2004年に、サドル潮流は
SCIRIに対してはその「対イラン依存」姿勢を糾弾したが、
ダアワ党のジャアファリ党首に対する批判は、
「かつてのダアワ党はそのように対米追随ではなかったではないか」
といったトーンになっていることは、興味深い。
サドル潮流のダアワ党に対する親近感には、サドル潮流のムクタダ・サドルの父
サーディク・サドルが元々ダアワ党と密接な関係を持っていたこと、
そもそもダアワ党創設者であるバーキル・サドルがムクタダの叔父にあたること
それ以上に、ダアワ党とサドル潮流の共通点は、
いずれもイラク国内での活動に力点を置き続けたこと、
そしてイラク一国としての統一を重視することにある。
初期ダアワ党の持っていた超宗派性を、より明示的な形で提示しているのが、
現在のサドル潮流だということもできる。
サドル潮流とダアワ党への支持の根源には、
彼らの持つ「イラク・ナショナリズム」があるといえよう。
「南部シーア派地域での地方自治政府樹立構想を明らかにしたSCIRIは
南部油田の利権獲得を見越して、
北部のクルドと「領地分割」で手打ちを行うことが可能である。
SCIRIとクルドの「現実的」な姿勢は、
国際社会としてはむしろ扱い易いものである。
あったダアワ党テヘラン支部と政治方向を巡って内部対立を生じ、1990年代末
以降ロンドン支部とダマスカス支部が党の主導権を握ってイランと距離を置いた
ダアワ党は、水面下で米英政府と交渉を持ってはいたものの、
イラク戦争開戦まで、軍事攻撃と米軍の威を借りた政権交替に反対していた。
「シーア派代表としてのシーア派イスラーム主義政党」という
位置づけに対して、ダアワ党を始めとするイスラーム主義政党は、反発した。
イスラーム主義者にとって、イスラーム主義は
シーア派社会にのみ適用されるべき思想ではなく、広くイスラーム社会全体、
つまりイラク社会全体に適用されるものだとの観点から、
「シーア派」社会のみの政党として認識されることに抵抗を示したのである。
SCIRIの「シーア派」限定性は、ダアワ党との
組織構成上の相違に起因するとも考えられる。
ダアワ党は、政党政党成立前、その構成員の一部がスンナ派のイスラーム主義
政党であるイスラーム解放党やムスリム同胞団に所属していたという経験を持つ
初期においてはスンナ派党員もダアワ党に加盟していたとの説もあり、
超宗派性を持つ。
ダアワ党は、党員及び幹部に、非ウラマーを多く持ち、
バグダードやバスラなどの都市部青年層での活動に一定の基礎を持つが、
SCIRIはウラマーの関与度が高い。
SCIRIにとっては、シーア派聖地という「一地域」としてのシーア派社会が
最も重要であるといえるだろう。
<イラク・ナショナリズムか、「有力者の手打ち」か>
都市青年層に比重を置くダアワ党とウラマー中心のSCIRIという差異は、
実はサドル潮流とSCIRIとの間に、より鮮明に見られる。
「イラク人であること」よりも、
「ナジャフ・カルバラで学んだウラマーとの関係」が
むしろ重要な要素を占める海外亡命組のSCIRIに対して、
純粋国内培養のサドル潮流は「イラク人としてイラクに生まれ育った」ことを
前面に押し出して、対抗意識を燃やしてきた。
特にサドル家とハキーム家という、
それぞれの組織の創立者のウラマー名家同士の対立も反映されている。
国内での大衆的支持は、イラク戦争直後から
国内組イスラーム主義組織にむしろ集まった。
特にサドル潮流が魅了したのは、イラン・イラク戦争から始まってイラク戦争に
至る戦時にも関わらず、そしてフセイン政権の圧政下にも関わらず国内に留まり
自分達の「時」が来るのを待ちわびていた「持たざる人々」であった。
それは主として都市部貧困地域の青年層であったが、サドル潮流の指導者である
ムクタダ・サドルの歯に衣着せぬ反米的言動、権威に対する反抗は、
彼自身の若さと相まって、特に戦後の不満層を代弁することとなったのである。
国内勢力であるサドル潮流は、亡命期間の長かったダアワ党に対しても、
批判的姿勢をとっている。しかしSCIRIに比較して、
サドル潮流のダアワ党への一定の「信頼」は明らかであろう。
サドル潮流の反米武装抵抗運動が激化した2004年に、サドル潮流は
SCIRIに対してはその「対イラン依存」姿勢を糾弾したが、
ダアワ党のジャアファリ党首に対する批判は、
「かつてのダアワ党はそのように対米追随ではなかったではないか」
といったトーンになっていることは、興味深い。
サドル潮流のダアワ党に対する親近感には、サドル潮流のムクタダ・サドルの父
サーディク・サドルが元々ダアワ党と密接な関係を持っていたこと、
そもそもダアワ党創設者であるバーキル・サドルがムクタダの叔父にあたること
それ以上に、ダアワ党とサドル潮流の共通点は、
いずれもイラク国内での活動に力点を置き続けたこと、
そしてイラク一国としての統一を重視することにある。
初期ダアワ党の持っていた超宗派性を、より明示的な形で提示しているのが、
現在のサドル潮流だということもできる。
サドル潮流とダアワ党への支持の根源には、
彼らの持つ「イラク・ナショナリズム」があるといえよう。
「南部シーア派地域での地方自治政府樹立構想を明らかにしたSCIRIは
南部油田の利権獲得を見越して、
北部のクルドと「領地分割」で手打ちを行うことが可能である。
SCIRIとクルドの「現実的」な姿勢は、
国際社会としてはむしろ扱い易いものである。
これは メッセージ 91178 (imonoyamashotengai さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019567/bpa5a4a5ia5afipno9tbbh_1/91179.html