Re: サウジをめぐる奇妙なトライアングル
投稿者: bonno_216 投稿日時: 2006/03/16 05:50 投稿番号: [89124 / 118550]
>最初は施設・基地としてのアルカイダとしてスタートしています。
>時期は冷戦期のアフガニスタン内戦時、(1988〜91の3年間)
これには異議ありません。ムジャヒディンのリーダーだったアブドゥル・アッザーム氏が、そうした施設群を「強固な基地」と呼んだことから、「アルカイダ」という名称が生まれたわけです。
アフガン帰りの戦士たちが、それぞれの祖国で「イスラム革命運動」に参加したことも事実ですが、アッザーム氏は、革命の手段としての「武装闘争」を支持していませんでした。
「イスラム救国戦線」や「ムスリム同胞団」は、大衆の支持を武器とし、世論と選挙によって社会を変革しようという運動を繰り広げたのです。
暴力革命を主張し、聖戦に備えて戦士たちをリクルートし、訓練しようとしたのは、アル・ジハードのアイマン・ザワヒリ氏であり、彼が「スポンサー」として白羽の矢を立て、アル・ジハードのリーダーに迎えた人物こそウサマ・ビンラディン氏だったわけです。「ピラミッド型の指揮命令で動くテロ組織」の誕生というなら、この1988年に新リーダーを迎えた「アル・ジハード」を指すべきでしょう。この時期、アル・ジハードはスーダンに拠点を移しており「アルカイダ」とは縁が切れています。
89年にアッザーム氏が暗殺され、アル・ジハードがスーダンに移った時点で「アルカイダ」は消滅したと言ってよいのではないかと思います。別の言い方をすればアルカイダは、アッザーム氏の遺志を次いだ、大衆運動としてのイスラム革命活動と、武力闘争を進めるイスラム過激派に分裂した…ってことになります。
こうして、911後の米国による武力攻撃で壊滅するより遥か以前に「(統一組織としての)アルカイダ」は存在していなかったというのが私の理解です。
アル・ジハードは1993〜4年の時点で、大衆の支持を完全に失い、組織としての実体がなくなっています。ビンラディン氏やザワヒリ氏など、少数のリーダー達は孤立し、スーダンに「潜伏」していたのです。
スーダン政府は、この「無力な集団」をいつでも逮捕拘束することが可能でした。事実、96年にはスーダン政府から米国に対して「ビンラディン氏引き渡し」が提案されています。スーダン政府は「ムジャヒディンの英雄」を自国で処罰したくなかったので、米国に引き取ってもらおうと考えたのでしょう。しかし、ご存知のように米国はこれを拒否しました。
戦力を喪失したとはいえ、アラブ世界で声高に「暴力革命」を主張する「煽動者」たちを、CIAが黙って泳がせておくなんてことは、常識的に考えられません。逮捕拘束しないまでも、危険人物として厳重に監視していたはずです。そんな彼らに「東南アジア地域での拠点作り」が可能だったとは、とても思えないのです。可能だったとすれば、CIAの許可を得てやっていたと考えるべきでしょう。
アル・ジハードの残党(あえて、こう呼びます)たちは、97年、アフガニスタンに戻ります。この時、受け入れに尽力したのが、パキスタンの諜報部です。タリバンのムラー・オマル氏らは何のメリットもない「ビンラディン受け入れ」に、それほど積極的ではなかったと言われています。タリバンの「親分」であるパキスタン諜報部から「まあ、面倒みてやってくれ」といわれ、渋々「客人」待遇で引き受けた…というのが実のところでしょう。
タリバンはアフガニスタンの全土制圧を目前に控え、カスピ海資源の開発やパイプライン敷設を巡り米国のユノカル社と交渉中でした。したがって、この時期に、米国政府の逆鱗に触れるような行動はとりたくなかったのです。
ムラー・オマル氏の、苦虫を噛み潰したような顔を尻目に、アル・ジハード残党たちはパキスタン諜報部の庇護を受けて「言いたい放題」をはじめます。98年5月、ビンラディン氏とザワヒリ氏は記者会見を開き「対米ジハード」を宣言しました。
宗教指導者でも軍人でもない、建築技術者と医者が「聖戦」を掲げ、超大国アメリカに「宣戦布告」する…これは正気の沙汰じゃありません。まして、自分たちを庇護してくれているパキスタン諜報部は、実質的に「CIA支部」なのです。この突飛な宣言に「裏」がないと考えるのは、あまりにもナイーブでしょう。(つづく)
>時期は冷戦期のアフガニスタン内戦時、(1988〜91の3年間)
これには異議ありません。ムジャヒディンのリーダーだったアブドゥル・アッザーム氏が、そうした施設群を「強固な基地」と呼んだことから、「アルカイダ」という名称が生まれたわけです。
アフガン帰りの戦士たちが、それぞれの祖国で「イスラム革命運動」に参加したことも事実ですが、アッザーム氏は、革命の手段としての「武装闘争」を支持していませんでした。
「イスラム救国戦線」や「ムスリム同胞団」は、大衆の支持を武器とし、世論と選挙によって社会を変革しようという運動を繰り広げたのです。
暴力革命を主張し、聖戦に備えて戦士たちをリクルートし、訓練しようとしたのは、アル・ジハードのアイマン・ザワヒリ氏であり、彼が「スポンサー」として白羽の矢を立て、アル・ジハードのリーダーに迎えた人物こそウサマ・ビンラディン氏だったわけです。「ピラミッド型の指揮命令で動くテロ組織」の誕生というなら、この1988年に新リーダーを迎えた「アル・ジハード」を指すべきでしょう。この時期、アル・ジハードはスーダンに拠点を移しており「アルカイダ」とは縁が切れています。
89年にアッザーム氏が暗殺され、アル・ジハードがスーダンに移った時点で「アルカイダ」は消滅したと言ってよいのではないかと思います。別の言い方をすればアルカイダは、アッザーム氏の遺志を次いだ、大衆運動としてのイスラム革命活動と、武力闘争を進めるイスラム過激派に分裂した…ってことになります。
こうして、911後の米国による武力攻撃で壊滅するより遥か以前に「(統一組織としての)アルカイダ」は存在していなかったというのが私の理解です。
アル・ジハードは1993〜4年の時点で、大衆の支持を完全に失い、組織としての実体がなくなっています。ビンラディン氏やザワヒリ氏など、少数のリーダー達は孤立し、スーダンに「潜伏」していたのです。
スーダン政府は、この「無力な集団」をいつでも逮捕拘束することが可能でした。事実、96年にはスーダン政府から米国に対して「ビンラディン氏引き渡し」が提案されています。スーダン政府は「ムジャヒディンの英雄」を自国で処罰したくなかったので、米国に引き取ってもらおうと考えたのでしょう。しかし、ご存知のように米国はこれを拒否しました。
戦力を喪失したとはいえ、アラブ世界で声高に「暴力革命」を主張する「煽動者」たちを、CIAが黙って泳がせておくなんてことは、常識的に考えられません。逮捕拘束しないまでも、危険人物として厳重に監視していたはずです。そんな彼らに「東南アジア地域での拠点作り」が可能だったとは、とても思えないのです。可能だったとすれば、CIAの許可を得てやっていたと考えるべきでしょう。
アル・ジハードの残党(あえて、こう呼びます)たちは、97年、アフガニスタンに戻ります。この時、受け入れに尽力したのが、パキスタンの諜報部です。タリバンのムラー・オマル氏らは何のメリットもない「ビンラディン受け入れ」に、それほど積極的ではなかったと言われています。タリバンの「親分」であるパキスタン諜報部から「まあ、面倒みてやってくれ」といわれ、渋々「客人」待遇で引き受けた…というのが実のところでしょう。
タリバンはアフガニスタンの全土制圧を目前に控え、カスピ海資源の開発やパイプライン敷設を巡り米国のユノカル社と交渉中でした。したがって、この時期に、米国政府の逆鱗に触れるような行動はとりたくなかったのです。
ムラー・オマル氏の、苦虫を噛み潰したような顔を尻目に、アル・ジハード残党たちはパキスタン諜報部の庇護を受けて「言いたい放題」をはじめます。98年5月、ビンラディン氏とザワヒリ氏は記者会見を開き「対米ジハード」を宣言しました。
宗教指導者でも軍人でもない、建築技術者と医者が「聖戦」を掲げ、超大国アメリカに「宣戦布告」する…これは正気の沙汰じゃありません。まして、自分たちを庇護してくれているパキスタン諜報部は、実質的に「CIA支部」なのです。この突飛な宣言に「裏」がないと考えるのは、あまりにもナイーブでしょう。(つづく)
これは メッセージ 89118 (maya_kosmisch さん)への返信です.
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