Re: テロとテロ退治を同列に並べるなら
投稿者: bonno_216 投稿日時: 2006/03/12 09:55 投稿番号: [88884 / 118550]
>テロは絶対的な悪なのであり、
案山子さんの「信仰」は、個人の価値観として尊重しますよ。でも人間社会の価値基準というものは、雑多な価値観の融合によって生まれます。
とはいえ、「テロ肯定」の価値基準を持つコミュニティは、まず存在しないでしょうから「テロは悪」という規定が間違いだとは言いません。
ただ これには、「テロ」という言葉の定義にかかわっていて、要するに、「不法な暴力=テロ」が一般的な定義だから、そうなるってだけのことなんです。
「貧乏人は金がない」って言うのと同じですね。実は「金のない人を貧乏人と呼ぶ」が正解で、ひっくり返せば何の証明にもならない、ごくあたりまえの事実追認にしかなりません。
もう何度も話しあったテーマですが、私が「案山子さんの言う『テロリスト』の定義を示してください」と言えば、あなたは「テロ行為を行う者が『テロリスト』だ」と明確に返されます。でも、これは「貧乏な人を貧乏人と呼ぶ」っていうのと同じで、やっぱり何の証明にもならないんですよ。
ここで重要なことは「テロ行為」の定義です。ほぼ全てのコミュニティで否定されている「テロ行為」とは、いったいどういう行為なのかということを考えなければなりません。
案山子さんの場合、ここで「個人的価値観」に帰って行っちゃうんですよね。乱暴な言い方をすれば「案山子さんが悪だと認識している行為=テロ行為」になっちゃうわけです。だったら「テロ=悪」なんて、あたりまえの話で、定義付けをひっくりかえしただけの無意味な主張だってことになります。
私は社会的コンセンサスとしての「テロの定義」を尋ねているのであり、個人的な価値観に基づく定義を訊いているのではありません。
一般的な倫理観では「暴力」が「悪」と看做されますが、では「暴力」を排除するための「暴力」はどうなのか? 刑罰としての「死刑」は「殺人」か?…ということが問題になります。これは、世の中に「暴力」という悪が存在する以上、それを排除するための「暴力」は必要な存在として認めざるをえない…というのが、現在の一般的なコンセンサスです。
そこで、使用する「暴力」を最小にして、「暴力」を最大限排除するための効果的な仕組みが必要になります。私はこれが「法」であると認識しています。したがって、ある「暴力」が「善」であるか「悪」であるかの基準は、合法であるか不法であるかに準拠すると言ってよいでしょう。
しかし、案山子さんはこの定義を絶対に認めようとされません。なぜなら、それを認めると、国際法を踏みにじってイラクを武力攻撃した米国の行為が「テロ行為」となってしまうからです。そこで「善悪の基準は法を超越した神の真理として存在する」っていう、ご自身の信仰に戻ってしまわれるわけです。
私は信仰の自由を認めます。だから案山子さん個人の信仰心を否定するつもりもありません。ただ、あなたが「悪」と信じることを、他の人々も同様に信じなければならないってことはない…唯一それだけをご理解いただければ私は満足です。
案山子さんの「信仰」は、個人の価値観として尊重しますよ。でも人間社会の価値基準というものは、雑多な価値観の融合によって生まれます。
とはいえ、「テロ肯定」の価値基準を持つコミュニティは、まず存在しないでしょうから「テロは悪」という規定が間違いだとは言いません。
ただ これには、「テロ」という言葉の定義にかかわっていて、要するに、「不法な暴力=テロ」が一般的な定義だから、そうなるってだけのことなんです。
「貧乏人は金がない」って言うのと同じですね。実は「金のない人を貧乏人と呼ぶ」が正解で、ひっくり返せば何の証明にもならない、ごくあたりまえの事実追認にしかなりません。
もう何度も話しあったテーマですが、私が「案山子さんの言う『テロリスト』の定義を示してください」と言えば、あなたは「テロ行為を行う者が『テロリスト』だ」と明確に返されます。でも、これは「貧乏な人を貧乏人と呼ぶ」っていうのと同じで、やっぱり何の証明にもならないんですよ。
ここで重要なことは「テロ行為」の定義です。ほぼ全てのコミュニティで否定されている「テロ行為」とは、いったいどういう行為なのかということを考えなければなりません。
案山子さんの場合、ここで「個人的価値観」に帰って行っちゃうんですよね。乱暴な言い方をすれば「案山子さんが悪だと認識している行為=テロ行為」になっちゃうわけです。だったら「テロ=悪」なんて、あたりまえの話で、定義付けをひっくりかえしただけの無意味な主張だってことになります。
私は社会的コンセンサスとしての「テロの定義」を尋ねているのであり、個人的な価値観に基づく定義を訊いているのではありません。
一般的な倫理観では「暴力」が「悪」と看做されますが、では「暴力」を排除するための「暴力」はどうなのか? 刑罰としての「死刑」は「殺人」か?…ということが問題になります。これは、世の中に「暴力」という悪が存在する以上、それを排除するための「暴力」は必要な存在として認めざるをえない…というのが、現在の一般的なコンセンサスです。
そこで、使用する「暴力」を最小にして、「暴力」を最大限排除するための効果的な仕組みが必要になります。私はこれが「法」であると認識しています。したがって、ある「暴力」が「善」であるか「悪」であるかの基準は、合法であるか不法であるかに準拠すると言ってよいでしょう。
しかし、案山子さんはこの定義を絶対に認めようとされません。なぜなら、それを認めると、国際法を踏みにじってイラクを武力攻撃した米国の行為が「テロ行為」となってしまうからです。そこで「善悪の基準は法を超越した神の真理として存在する」っていう、ご自身の信仰に戻ってしまわれるわけです。
私は信仰の自由を認めます。だから案山子さん個人の信仰心を否定するつもりもありません。ただ、あなたが「悪」と信じることを、他の人々も同様に信じなければならないってことはない…唯一それだけをご理解いただければ私は満足です。
これは メッセージ 88814 (oxnardnokakashi さん)への返信です.
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