どうして人を殺せるのか?(1)
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2005/08/30 00:49 投稿番号: [78674 / 118550]
実は、アフラ先生の解答を待っている、暇に任せて書いたボンノさんへの質問が、広がりすぎていて、申し訳ないです。
さて、
私も、前の「個人的な意見」と言う中で、正当防衛や、緊急避難という概念を否定していないことでもわかると思いますが、何らかの意味で、「人が人を殺す可能性」を否定しているわけではありません。
ただ、人間の歴史的な「叡知」というものは、精緻な法体系等を作り出すことにより、国内的な領域に限定すれば、その人間の「殺すかも知れない可能性」のコントロールの仕方を(まだまだ不十分で不備な部分も多くあるのかも知れませんが、日常に生活する多くの国民の意識レベルの問題としては)ほぼ手中にしていると考えられると思っています。
これが、国際的に応用できれば、多くの戦争は回避できるだろうと考えているに過ぎません。それには、国家の自立が必要だと考えていますが、一番強いアメリカが、「他国への依存」を前提として成り立っていることが明らかになっているわけで、世界平和は、なかなか難しいのだろうなあというのが最近の実感です。
では、どうして人は人を殺すことが出来るのか?
私には良くわかりませんが、世界で、初めて無差別攻撃をやったといわれる、スペインのゲルニカや、中国大陸の重慶の辺りから、人間の倫理観は、実は、「退化」し、「麻痺」していて、あれ以来、正常な判断力というようなものが、減退しているのではないだろうか?と感じることさえあります。
つまり、民主主義という概念が生まれたことにより、その当初の概念から意識的にずらされた、(ボンノさんの言われるような)、国民主権の思い込みによるある種の「マヤカシ」によって、一部の権力者の所有物と化している現実というものがあると思います。そして、多くの一般人が、使い捨ての一つの歯車、一つの銃弾ほどの価値にしかなくなってしまっている現実というものの把握が出来ずに、主権者(国民)による「意志」として「是」とすることを不思議に思わない(許容する)という、極めて不可思議な現象の中に陥っ(らされ)ていると思います。
「ハーレム」と同じように、昔のヨーロッパの農民や、商人だけでなく、日本においても、戦国時代の農民や商人も、武士階級の戦闘員とは無関係に、農民はかれらが殺し合うのを眺めながら畑を耕していられた時代というものは、「人間が生きる」ということには、何が必要か?ということが良くわかっていたわけで、そういう意味で、農民も、武士階級にとっては自分を豊かにしてくれる、一つのオプションのようなものだったわけだから、相手を倒すことによって、そのオプションが手に入れることが出来ると言った意味で、ある意味、非常に大事にされてきたわけですよね?
つまりそこには、キリスト教(一神教)的な「ハルマゲドン」のような唯一神による(他から見れば)「理不尽な破壊」というものはホンの例外的な意味においてしか存在しなかった。
これは、おそらく、非常に地域的な、地続きな交流とでも言うべき、狭い範囲の人間関係というものの中で、「自と他との関係性」みたいなものが自覚的に存在したからだと思います。
それが、自動車が出来、大航海が出来る船が出来、飛行機が出来、交通手段が発達してくると、ある時いきなり、自分とは全くつながりの無い、異民族、異宗教の人間との出会いが実現してしまう。この彼らの出現は、一神教の神にとっては、全く躊躇することなく「破壊」できる文化であり、人間(の様なもの)だった訳ですから、ここで、彼らのこれまでのあくまでも自分達につながりのあるもののために培われてきた倫理観が崩壊してしまう。彼らに対しては、自分達の倫理観を使う必要がないのです。
さて、
私も、前の「個人的な意見」と言う中で、正当防衛や、緊急避難という概念を否定していないことでもわかると思いますが、何らかの意味で、「人が人を殺す可能性」を否定しているわけではありません。
ただ、人間の歴史的な「叡知」というものは、精緻な法体系等を作り出すことにより、国内的な領域に限定すれば、その人間の「殺すかも知れない可能性」のコントロールの仕方を(まだまだ不十分で不備な部分も多くあるのかも知れませんが、日常に生活する多くの国民の意識レベルの問題としては)ほぼ手中にしていると考えられると思っています。
これが、国際的に応用できれば、多くの戦争は回避できるだろうと考えているに過ぎません。それには、国家の自立が必要だと考えていますが、一番強いアメリカが、「他国への依存」を前提として成り立っていることが明らかになっているわけで、世界平和は、なかなか難しいのだろうなあというのが最近の実感です。
では、どうして人は人を殺すことが出来るのか?
私には良くわかりませんが、世界で、初めて無差別攻撃をやったといわれる、スペインのゲルニカや、中国大陸の重慶の辺りから、人間の倫理観は、実は、「退化」し、「麻痺」していて、あれ以来、正常な判断力というようなものが、減退しているのではないだろうか?と感じることさえあります。
つまり、民主主義という概念が生まれたことにより、その当初の概念から意識的にずらされた、(ボンノさんの言われるような)、国民主権の思い込みによるある種の「マヤカシ」によって、一部の権力者の所有物と化している現実というものがあると思います。そして、多くの一般人が、使い捨ての一つの歯車、一つの銃弾ほどの価値にしかなくなってしまっている現実というものの把握が出来ずに、主権者(国民)による「意志」として「是」とすることを不思議に思わない(許容する)という、極めて不可思議な現象の中に陥っ(らされ)ていると思います。
「ハーレム」と同じように、昔のヨーロッパの農民や、商人だけでなく、日本においても、戦国時代の農民や商人も、武士階級の戦闘員とは無関係に、農民はかれらが殺し合うのを眺めながら畑を耕していられた時代というものは、「人間が生きる」ということには、何が必要か?ということが良くわかっていたわけで、そういう意味で、農民も、武士階級にとっては自分を豊かにしてくれる、一つのオプションのようなものだったわけだから、相手を倒すことによって、そのオプションが手に入れることが出来ると言った意味で、ある意味、非常に大事にされてきたわけですよね?
つまりそこには、キリスト教(一神教)的な「ハルマゲドン」のような唯一神による(他から見れば)「理不尽な破壊」というものはホンの例外的な意味においてしか存在しなかった。
これは、おそらく、非常に地域的な、地続きな交流とでも言うべき、狭い範囲の人間関係というものの中で、「自と他との関係性」みたいなものが自覚的に存在したからだと思います。
それが、自動車が出来、大航海が出来る船が出来、飛行機が出来、交通手段が発達してくると、ある時いきなり、自分とは全くつながりの無い、異民族、異宗教の人間との出会いが実現してしまう。この彼らの出現は、一神教の神にとっては、全く躊躇することなく「破壊」できる文化であり、人間(の様なもの)だった訳ですから、ここで、彼らのこれまでのあくまでも自分達につながりのあるもののために培われてきた倫理観が崩壊してしまう。彼らに対しては、自分達の倫理観を使う必要がないのです。
これは メッセージ 78624 (bonno_216 さん)への返信です.
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