対イラク武力行使

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明日は、沖縄では【慰霊の日】

投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2005/06/22 23:10 投稿番号: [73803 / 118550]
学校が休校し、県民こぞって、【沖縄戦の犠牲者に哀悼の意を捧げる】という。

そして又【激戦地サイパンに、天皇負債】が、【慰霊の旅】に出かけるとか。


彼らが出かけることで、【慰霊】になるのか。


サイパンの特集・・東京新聞から

★サイパン陥落

<上>玉砕より『生きたい』


  白い砂浜と透明な海が広がる米自治領サイパン島の北西海岸。

  「ここで拾ったの」

  島で中学校副校長をしている米国人、ベス・ネパイアルさん(40)が砂浜の一角を指さした。

  それは五年前のこと。浜で拾った小判形の小さな金属札が、日本兵のものらしいと分かった。「遺族に返せたら」と日本領事館に預け、忘れかけていたころ、自宅の電話が鳴った。「持ち主が生きている?」。感激に、涙が止まらなかった。

  翌年。ネパイアルさんが日本で会った元日本兵、山内武夫さん(84)=東京都練馬区=の表情は硬かった。厚生労働省を通じて返還されたその札は、永久に捨てたはずのものだったからだ。


山内さんが描いた、自分が投降した時の光景。手前に日本兵の死体、向こうに米兵
  「敵が上陸したぞ!」

  一九四四年六月十五日。張りつめた叫びに、島西岸の守備に就いていた二十三歳の山内さんは心臓を貫かれたような衝撃を受けた。ついに米軍の上陸作戦が始まったのだ。沖合の海は二日前から見渡す限りの艦隊で黒く染まり、激しい空襲と艦砲射撃が続いていた。

  二、三百メートル先の海岸に生まれて初めて見る米兵がいる。分隊長として十三人の兵を率いていた山内さんは、怒鳴る上官に促され、ためらいを振り切って「突撃ーっ!」と、初の攻撃命令を下した。

  陣地から飛び出すと、弾丸がのどをかすめた。後に続いた部下が戦死した。山内さんは「生き残りたい」と思った。

  現在の東京外国語大(ロシア語)を中退。徴集を受け、陸軍第四三師団の歩兵第一三六連隊(岐阜)に配属された山内さんが、サイパンに到着したのはわずか一カ月前のことだった。

  「難攻不落」とされていたサイパンだが、地上戦が始まると日米の圧倒的な火力の差に、守備隊は瞬く間に散り散りになる。山内さんは仲間たちとジャングルの中を北へと敗走した。

  目の前を銃砲弾が降り注ぐ。「死んだ」と思った瞬間は十回は下らない。瀕死(ひんし)の兵隊が「天皇陛下、万歳」と三度繰り返すのを聞いた。

【   仲間たちは「玉砕」を唱えた。<生きて虜囚の辱めを受けず>。】


「戦陣訓」の教えは浸透していた。

【だが、山内さんは「欧州では捕虜は保護される」ことを知っていた。「捕虜になりたい」という生への希求だけが強かった。】

  たどり着いた海岸は日本兵の屍(しかばね)で覆われていた。逃げ込んだ洞窟(どうくつ)は、日本兵の命令で、母親たちに殺された幼子の死臭が漂っていた。

  七月十四日、決意を固めた。夜明け前に洞窟をそっと出て、米軍の投降の呼びかけを待つ。



  「ニホンノヘイタイサン、デテキナサイ…」。日本兵の死体が横たわる山の斜面を、声に向かって歩きだした。その時、肩からかけていた兵の証しを捨てた。個人番号が刻まれた「認識票」=写真、ケン・マキニーさん撮影=という金属札だった。日本軍の組織的戦闘はとうに終わっていた。

  山中に捨てられた認識票が半世紀余を経て、どのように浜辺に流れ着いたのかは分からない。
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