靖国問題の経緯2
投稿者: battamama 投稿日時: 2005/05/21 08:24 投稿番号: [71652 / 118550]
昭和26年10月、靖国神社秋の例大祭。
前月にサンフランシスコ講和条約の調印を終えた吉田茂首相が参拝した。
GHQは靖国神社と国を切り離し、単なる「宗教法人」とした。占領下では首相の参拝は許されず、この時もまだ条約は発行前で占領下だったが、吉田は一刻も早く英霊に条約調印の「奉告」がしたかったのだろう。この参拝に対して、当時の朝日新聞は全く咎めていない。
靖国神社を国から切り離したのは、単にGHQの都合によるもの。靖国は英霊の居る公的な場所で、首相が公式に参拝するのは当然。当時の日本人は誰もがそう思っていた。
この時、主要閣僚衆参両院の正副議長も参拝したが、GHQは注意や苦情も出さず、一般人の参拝も例大祭の2日間で35万人を数えた。
歴代総理は春秋の例大祭りなどに、ほぼ毎年ごく当たり前に公式参拝しており、それに中国や韓国が反発することなど一切無かった。
だが、日本国内の言論空間は、60年安保全共闘運動を経て、左翼に占領され、2000万もの署名を集めた国民の悲願「靖国神社国家護持」の法案も、昭和49年に廃案になった。
翌昭和50年、三木武夫は首相として初めて終戦記念日に参拝したが、そこで左翼に媚び、絶対言ってはいけないことを言った。
「内閣総理としてではなく、三木個人としての参拝である」。
首相自ら左翼にエサを与え、これ以降靖国神社は左翼の政争の具にされた。
それまで数年おきに行われていた天皇の靖国神社御親拝も、この年を最後に現在まで行われていない。
そんな風潮に更に媚びた政府・自民党は、昭和53年「政府統一見解」を発表。
戦後のすべての首相公式参拝を、「実は私的参拝だった」ということにしてしまったのだ。
一方、同じく53年、靖国神社は連合国により裁判で「A級戦犯」とされた人々14柱を合祀した。
山崎拓が「1978年に、A級戦犯を合祀したから、中国が反発した」と言ったこともウソ出鱈目である。
反発したのは、日本国内の左翼だけで、合祀の後も大平正芳が3回、鈴木善幸が8回、中曽根康弘が9回参拝したが、中国・韓国は全く騒いでいない。
戦後40周年の昭和60年8月15日、中曽根は「戦後政治の総決算の一環として、靖国神社公式参拝を実現する」と大々的に掲げ、懇談会で法学者などに討議させた。
その結果、「首相の参拝は合憲」。
ところが、朝日新聞などの左翼マスコミが
「反靖国」「参拝反対」の大キャンペーンを展開した。中曽根は、左翼に媚びて「宗教色を排除した参拝をする」と言い始めたのだ。
「二礼・二拍手・一礼」の神道の拝礼すらせず、「一礼」だけにすると言ったのだ。
「定着した儀式の形を勝手に変えるのは、神社の祭式に対する侮辱である」そう言って靖国神社の松平宮司は猛反発した。
自民党は、とにかく「公式参拝」の実現が第一だと説得し、昭和60年8月15日欺瞞に満ちた「公式参拝」が行われた。
松平宮司は正式の装束をつけず、平服の袴姿で中曽根を迎えた。
朝日新聞は7月末から騒ぎ出し、8月7日には「中国が厳しい視線で凝視している」と書いた。もちろん事実無根。
朝日の「中国の反発が予想される」という記事は、「中国様、どうぞ反発して下さい」ということと同意。
8月10日、期待に応えるかの如く、中国「人民日報」が「不快感」を表明。
それを朝日が輸入して、更に騒いだ。
8月14日、中国外務省が、初めて公式に参拝反対を声明。
日本の左翼が、火のないところに火種を落とし、油を注ぎ続けて大火事にしたのだ。
靖国神社を『国際問題』にでっち挙げたのは朝日新聞であるという事実を我々は忘れてはならない。
中国は、それを外交カードに利用しただけである。
それまで中国の民衆は、「ヤスクニ」という言葉も知らなかったのだ。
参拝後は、社会党の書記長が訪中して、自国の首相を悪し様に言い募り、それに呼応して中国は態度をどんどんエスカレートさせ、騒ぎは中国内部の権力闘争を背景に9月以降も続いた。(胡耀邦総書記失脚事件に発展)
(小林よしのり著『戦争論2』参照)
前月にサンフランシスコ講和条約の調印を終えた吉田茂首相が参拝した。
GHQは靖国神社と国を切り離し、単なる「宗教法人」とした。占領下では首相の参拝は許されず、この時もまだ条約は発行前で占領下だったが、吉田は一刻も早く英霊に条約調印の「奉告」がしたかったのだろう。この参拝に対して、当時の朝日新聞は全く咎めていない。
靖国神社を国から切り離したのは、単にGHQの都合によるもの。靖国は英霊の居る公的な場所で、首相が公式に参拝するのは当然。当時の日本人は誰もがそう思っていた。
この時、主要閣僚衆参両院の正副議長も参拝したが、GHQは注意や苦情も出さず、一般人の参拝も例大祭の2日間で35万人を数えた。
歴代総理は春秋の例大祭りなどに、ほぼ毎年ごく当たり前に公式参拝しており、それに中国や韓国が反発することなど一切無かった。
だが、日本国内の言論空間は、60年安保全共闘運動を経て、左翼に占領され、2000万もの署名を集めた国民の悲願「靖国神社国家護持」の法案も、昭和49年に廃案になった。
翌昭和50年、三木武夫は首相として初めて終戦記念日に参拝したが、そこで左翼に媚び、絶対言ってはいけないことを言った。
「内閣総理としてではなく、三木個人としての参拝である」。
首相自ら左翼にエサを与え、これ以降靖国神社は左翼の政争の具にされた。
それまで数年おきに行われていた天皇の靖国神社御親拝も、この年を最後に現在まで行われていない。
そんな風潮に更に媚びた政府・自民党は、昭和53年「政府統一見解」を発表。
戦後のすべての首相公式参拝を、「実は私的参拝だった」ということにしてしまったのだ。
一方、同じく53年、靖国神社は連合国により裁判で「A級戦犯」とされた人々14柱を合祀した。
山崎拓が「1978年に、A級戦犯を合祀したから、中国が反発した」と言ったこともウソ出鱈目である。
反発したのは、日本国内の左翼だけで、合祀の後も大平正芳が3回、鈴木善幸が8回、中曽根康弘が9回参拝したが、中国・韓国は全く騒いでいない。
戦後40周年の昭和60年8月15日、中曽根は「戦後政治の総決算の一環として、靖国神社公式参拝を実現する」と大々的に掲げ、懇談会で法学者などに討議させた。
その結果、「首相の参拝は合憲」。
ところが、朝日新聞などの左翼マスコミが
「反靖国」「参拝反対」の大キャンペーンを展開した。中曽根は、左翼に媚びて「宗教色を排除した参拝をする」と言い始めたのだ。
「二礼・二拍手・一礼」の神道の拝礼すらせず、「一礼」だけにすると言ったのだ。
「定着した儀式の形を勝手に変えるのは、神社の祭式に対する侮辱である」そう言って靖国神社の松平宮司は猛反発した。
自民党は、とにかく「公式参拝」の実現が第一だと説得し、昭和60年8月15日欺瞞に満ちた「公式参拝」が行われた。
松平宮司は正式の装束をつけず、平服の袴姿で中曽根を迎えた。
朝日新聞は7月末から騒ぎ出し、8月7日には「中国が厳しい視線で凝視している」と書いた。もちろん事実無根。
朝日の「中国の反発が予想される」という記事は、「中国様、どうぞ反発して下さい」ということと同意。
8月10日、期待に応えるかの如く、中国「人民日報」が「不快感」を表明。
それを朝日が輸入して、更に騒いだ。
8月14日、中国外務省が、初めて公式に参拝反対を声明。
日本の左翼が、火のないところに火種を落とし、油を注ぎ続けて大火事にしたのだ。
靖国神社を『国際問題』にでっち挙げたのは朝日新聞であるという事実を我々は忘れてはならない。
中国は、それを外交カードに利用しただけである。
それまで中国の民衆は、「ヤスクニ」という言葉も知らなかったのだ。
参拝後は、社会党の書記長が訪中して、自国の首相を悪し様に言い募り、それに呼応して中国は態度をどんどんエスカレートさせ、騒ぎは中国内部の権力闘争を背景に9月以降も続いた。(胡耀邦総書記失脚事件に発展)
(小林よしのり著『戦争論2』参照)
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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