対イラク武力行使

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>嘘も方便<ドラさん

投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2005/05/15 22:31 投稿番号: [71191 / 118550]
>ドラさん、こんな時だけ小泉首相の話を肯定的に捉えるのね。笑
小泉さんなりの社交辞令であることが分からない?

これは今も【外務省HP】に記載されているもので【侵略戦争であった】と言うことは、これは政府の公式見解。
ほかに、村山・細川首相のもある。


>>全て偽とはいえないでしょうね。
>>ただ、日時・場所がはっきりしなかったり、誤用したりした例はある。

>いいえ、合成、演出、転載、キャンプションの改竄など、証拠写真143枚の中で証拠として通用する写真は1枚もなかったことが実証されています。


だから【南京大虐殺】を写真だけで証明している学者はいない。



★証拠として採用できる村瀬氏の写真

(16) 南京制圧
  第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐殺死体が目立ち始めました。
  部隊は夜おそくまで行進をつづけ、適当な部落で大休止です。車両は街道においたまま車両衛兵をたてて、警戒しています。

  私達はくずれかけている民家を探して、班ごとに分宿です。土間にひくアンペラ(竹で編んだゴザ)を探して、穴蔵のようになっている奥の部屋に踏み込むと、

下半身裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。 少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。 プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。


  翌朝、出発前に点検すると、奥の部屋にもう二人、老人が殺されていました。

  このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を加えて虐殺し、女性の性器に棒を差し込んでおくような、残虐な事例も何回か目にしました。

  南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、厳しい命令を受けて、目が血走っていました。


  小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、なんでもやれるぞ」と上官からハッパをかけられているのです。


  戦国時代の将軍が、敵の都市を攻略するときに、部下の将兵に、獲物を与えたと同じやり方が、南京攻撃にも使われていたのです。

  十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。

  私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされていました。

  どこからともなく城内で大虐殺が行われている、という噂が流れてきました。捕虜を南京の背後ある、紫金山のふもとへかりたて、機関銃を打ちまくって数千いや、数万人も殺りくしたというのです。

(17)大虐殺のうわさが…
  ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。


  揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。


  死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった死体も、数多くありました。 死臭で息もつけない中を、工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていましたが、こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。

(写真キャプション)虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人でした。
(写真キャプション)揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。

(写真キャプション)工兵隊が死体に鈎を引っ掛けて、沖へ流す作業をしていました。一回に数体ぐらいですから、こんなやり方では二ヵ月以上もかかりそうでした。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/murase.htm
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