>盧溝橋事件は中共の陰謀
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2005/05/13 21:50 投稿番号: [71046 / 118550]
ばったさん、あなたのこの
【盧溝橋事件】は、ばったオリジナル?
★盧溝橋事件・・最初の発砲はなぞ・・と言うのが通説じゃないでしょうかね。
☆盧溝橋事件☆
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の南を流れる永定河(廬溝河)に架かる橋の盧溝橋・・・
付近で、北京郊外の富台に駐屯する日本の支那駐屯軍が夜間演習を実施していた、
その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の2等兵1人が足りなかった。
これは中国軍(宋哲元の第29軍)の奇襲に違いない!やられた兵士の仇を討つのだ!」と騒ぎになり、事態を重視した牟田口廉也(むたぐちれんや)連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃する。
一発触発の状況の中で日本軍は現地での軍隊同士の小競り合い理由に7月8日から総攻撃を加えたのである。
世に言う「盧溝橋事件」である(なお、日本兵1人足りなかったのは兵士1名が下痢で演習直後に草むらにかけ込んだためであり、直後に無事帰還していた)。
7月9日には停戦が行われ、11日には停戦協定が調印されて事態は収拾されたかに思えたが、
第1次近衛内閣(1937年6月4日〜1939年1月5日)は重大決意を表明、約10万の大部隊の華北派兵を決定、中国軍も態度を硬化させ部隊を華北に移動させた。
さらに同年8月15日、近衛内閣は、「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表、日本軍大部隊の派兵と中国国民政府の膺懲(ようちょう)を宣言したため、両国は全面戦争状態に発展した。
華北(かほく=国の北部、北は万里の長城に、南は秦嶺山脈と淮河に限られる、黄河中・下流域地方)を第2の満州国化しようとはかっていた日本は、
中国民衆の抵抗力を軽視して、中国人民の屈服は容易と考え、戦線を拡大し、破滅への道を突きすすんだのであるが、戦争目的を明示する大義名分がなかったため、
「暴戻(ぼうれい=残酷で徳義にもとること)」なる「支那軍」の「膺懲(ようちょう=敵や悪者を打ちこらしめること)」という欺瞞的、かつ勇ましいだけのスローガンで侵略戦争を正当化するほかなかった。
だが、こうした空虚な内容のないスローガンに日本国民は狂気し、展望のない侵略戦争に狂奔することになる。
戦争が拡大し、中国の首都南京を占領したのち、1938(昭和13)年1月16日、近衛内閣は、国民政府の存在を否認し、日本の作り上げた傀儡(かいらい=陰にいる人物に思いどおりに操られ、利用されている者。操り人形)政権との連携を強める政治姿勢を明確にするため、「国民政府対手ニセズ」なる政府声明を発表した。
これにより、日本は完全に和平交渉の道を閉ざしのである。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokyoujikennseifuseimei.htm
【盧溝橋事件】は、ばったオリジナル?
★盧溝橋事件・・最初の発砲はなぞ・・と言うのが通説じゃないでしょうかね。
☆盧溝橋事件☆
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の南を流れる永定河(廬溝河)に架かる橋の盧溝橋・・・
付近で、北京郊外の富台に駐屯する日本の支那駐屯軍が夜間演習を実施していた、
その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の2等兵1人が足りなかった。
これは中国軍(宋哲元の第29軍)の奇襲に違いない!やられた兵士の仇を討つのだ!」と騒ぎになり、事態を重視した牟田口廉也(むたぐちれんや)連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃する。
一発触発の状況の中で日本軍は現地での軍隊同士の小競り合い理由に7月8日から総攻撃を加えたのである。
世に言う「盧溝橋事件」である(なお、日本兵1人足りなかったのは兵士1名が下痢で演習直後に草むらにかけ込んだためであり、直後に無事帰還していた)。
7月9日には停戦が行われ、11日には停戦協定が調印されて事態は収拾されたかに思えたが、
第1次近衛内閣(1937年6月4日〜1939年1月5日)は重大決意を表明、約10万の大部隊の華北派兵を決定、中国軍も態度を硬化させ部隊を華北に移動させた。
さらに同年8月15日、近衛内閣は、「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表、日本軍大部隊の派兵と中国国民政府の膺懲(ようちょう)を宣言したため、両国は全面戦争状態に発展した。
華北(かほく=国の北部、北は万里の長城に、南は秦嶺山脈と淮河に限られる、黄河中・下流域地方)を第2の満州国化しようとはかっていた日本は、
中国民衆の抵抗力を軽視して、中国人民の屈服は容易と考え、戦線を拡大し、破滅への道を突きすすんだのであるが、戦争目的を明示する大義名分がなかったため、
「暴戻(ぼうれい=残酷で徳義にもとること)」なる「支那軍」の「膺懲(ようちょう=敵や悪者を打ちこらしめること)」という欺瞞的、かつ勇ましいだけのスローガンで侵略戦争を正当化するほかなかった。
だが、こうした空虚な内容のないスローガンに日本国民は狂気し、展望のない侵略戦争に狂奔することになる。
戦争が拡大し、中国の首都南京を占領したのち、1938(昭和13)年1月16日、近衛内閣は、国民政府の存在を否認し、日本の作り上げた傀儡(かいらい=陰にいる人物に思いどおりに操られ、利用されている者。操り人形)政権との連携を強める政治姿勢を明確にするため、「国民政府対手ニセズ」なる政府声明を発表した。
これにより、日本は完全に和平交渉の道を閉ざしのである。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokyoujikennseifuseimei.htm
これは メッセージ 70978 (battamama さん)への返信です.
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