ナショナリズム:境界の内と外-1
投稿者: asean_peace11 投稿日時: 2005/01/28 13:57 投稿番号: [63066 / 118550]
こんにちは、ライターさん(早いっすねぇ〜流れが。。。)
ナシャナリズムが他者と自己(集団)を分ける為に自然発生的(自発的)に生まれて・・・・
と言うのであれば帰属性や帰属意識という観点から当然のモノであるとすることは
可能かも知れません。。。。
しかしですね、集団への帰属意識なるモノが自己のアイデンティティを確定する為に自発的に
成立するのであれば逆に集団の帰属は自己のアイデンテイティの消滅という作業も
自らが(自発的)に選択したということになるのではないでしょうか?
つまり、民族意識なるモノが当然のモノであるならば国民や国家と言う存在は民族と言う領域からは
抜け出すことが出来ない・・っということでもあると思います。
国民や国家と言う存在はその民族性や文化や習慣の違いを普遍化した/させた”結果”であって
その国家の国民であることが目的では本来ないのではないか?です。
個としてのアイデンティティの確立の代わりに主権国家(国民国家)としての主構成員たる国民としての
アイデンティティを”作り上げる”が故にナショナリズムも又その手段として発明され利用されてきた。
で、帰属意識が全ての人間に普遍的に且生得的にある、とするならばですが、そうした民族意識
(人種意識でもよいかなぁ?)がどのようなプロセスを経ることで愛”国”心というモノに
昇華又は変化するのか?そして、此処で指している”国”とはどういうものか?を定義しないまま又は
ヘーゲル的思想がその背景に存在するのであれば・・・多くの第三世界の特徴としてある統合概念の
未発達(組織化概念の未発達)故に西欧思想側からすると
多くの第三世界の理屈は枝葉末節に拘り、重箱の隅に押しやったはずの民族性等を中間プロセス無しに
一気にナショナリズムへ変容させて、その言葉だけが本来の意味性を失って一人歩きする結果を
生んでしまっているのではないか?・・・っとも考えられるのではないでしょうか
現在のイラクの現状はまさにそうした状態を示している・・・っと僕は理解しています。
『イラク国民』という普遍的な概念が成立する遥か以前の状態(敢えてそう表現するならばですが)
の中で自己(集団)の生存権と自由を確保する為に他者の支配に血道を上げなければならない状態
そこに存在するヴィジョンや目的等はそうした目先の生存権の確保と自由の確保であり、その後の事は
それが達成された”後”で考えることであって、現状でそんな先の不確かなこと等(自己が生き延び
られる確証等存在しない)を考えること自体が”時間の無駄”とする理解
(僕は非常に第三世界らしい意識だと思いますが)
時間という表現を使ったのでちょっと寄り道ですが(苦笑)
グローバル化の一つの大きな側面に”時間概念の普遍化”がありその基準がGMTだと思いますが
グローバル化なるモノが一般的ではなかった時代には「固有の時間」が至る所に成立していた訳ですが
その様々な時間を西欧的な時間概念によって階層化し(序列化:歴史と言う領域の成立かな?)
最上位概念としてのGMT制概念で普遍化を行うことで時間概念から主体性が失われ分割され
相対化されてしまった・・・・この西欧型時間概念に全く馴染んでいない第三世界の人間は非常に
多く存在していますし、彼らからすると先進国と呼ばれる諸国の人達はどうして(なぜ)
秒分単位や時刻等というモノに異常な迄に拘るのか?をほとんど理解出来ないのも事実です。
話を戻して(笑、スンマセン)、僕は民族性とナショナリズムが直接、自発的、自然に結びつくとは
ちょっと考えづらいんです・・・なぜなら、民族性とはある種、固有の観念ですから汎用性や共同性
などは備えていないと思いますが国民や国家という存在は
全くのその逆の存在だと理解するからです。
(多くの第三世界で”全国規模の事業(特に非暴力での)”が成功した事例を僕は知りません、苦笑)
日本の場合は人種性という要素を上手く利用出来たんだと思いますが、その分、自国の国際化という
分野は言われている程進んではいないですよね?
(今回の元々の話題に関しては詳細を知りませんのでコメントは出来ません、スンマセン)
敢えて言うなら(外部から見た感想ですが)・・・・日本人、日本国民という普遍性を積極的に受け入れた
結果として個というモノを捨て去った・・・とも言えなくも無いのかなぁ?
・・・・この程度です、はい。
続きます・・・
ナシャナリズムが他者と自己(集団)を分ける為に自然発生的(自発的)に生まれて・・・・
と言うのであれば帰属性や帰属意識という観点から当然のモノであるとすることは
可能かも知れません。。。。
しかしですね、集団への帰属意識なるモノが自己のアイデンティティを確定する為に自発的に
成立するのであれば逆に集団の帰属は自己のアイデンテイティの消滅という作業も
自らが(自発的)に選択したということになるのではないでしょうか?
つまり、民族意識なるモノが当然のモノであるならば国民や国家と言う存在は民族と言う領域からは
抜け出すことが出来ない・・っということでもあると思います。
国民や国家と言う存在はその民族性や文化や習慣の違いを普遍化した/させた”結果”であって
その国家の国民であることが目的では本来ないのではないか?です。
個としてのアイデンティティの確立の代わりに主権国家(国民国家)としての主構成員たる国民としての
アイデンティティを”作り上げる”が故にナショナリズムも又その手段として発明され利用されてきた。
で、帰属意識が全ての人間に普遍的に且生得的にある、とするならばですが、そうした民族意識
(人種意識でもよいかなぁ?)がどのようなプロセスを経ることで愛”国”心というモノに
昇華又は変化するのか?そして、此処で指している”国”とはどういうものか?を定義しないまま又は
ヘーゲル的思想がその背景に存在するのであれば・・・多くの第三世界の特徴としてある統合概念の
未発達(組織化概念の未発達)故に西欧思想側からすると
多くの第三世界の理屈は枝葉末節に拘り、重箱の隅に押しやったはずの民族性等を中間プロセス無しに
一気にナショナリズムへ変容させて、その言葉だけが本来の意味性を失って一人歩きする結果を
生んでしまっているのではないか?・・・っとも考えられるのではないでしょうか
現在のイラクの現状はまさにそうした状態を示している・・・っと僕は理解しています。
『イラク国民』という普遍的な概念が成立する遥か以前の状態(敢えてそう表現するならばですが)
の中で自己(集団)の生存権と自由を確保する為に他者の支配に血道を上げなければならない状態
そこに存在するヴィジョンや目的等はそうした目先の生存権の確保と自由の確保であり、その後の事は
それが達成された”後”で考えることであって、現状でそんな先の不確かなこと等(自己が生き延び
られる確証等存在しない)を考えること自体が”時間の無駄”とする理解
(僕は非常に第三世界らしい意識だと思いますが)
時間という表現を使ったのでちょっと寄り道ですが(苦笑)
グローバル化の一つの大きな側面に”時間概念の普遍化”がありその基準がGMTだと思いますが
グローバル化なるモノが一般的ではなかった時代には「固有の時間」が至る所に成立していた訳ですが
その様々な時間を西欧的な時間概念によって階層化し(序列化:歴史と言う領域の成立かな?)
最上位概念としてのGMT制概念で普遍化を行うことで時間概念から主体性が失われ分割され
相対化されてしまった・・・・この西欧型時間概念に全く馴染んでいない第三世界の人間は非常に
多く存在していますし、彼らからすると先進国と呼ばれる諸国の人達はどうして(なぜ)
秒分単位や時刻等というモノに異常な迄に拘るのか?をほとんど理解出来ないのも事実です。
話を戻して(笑、スンマセン)、僕は民族性とナショナリズムが直接、自発的、自然に結びつくとは
ちょっと考えづらいんです・・・なぜなら、民族性とはある種、固有の観念ですから汎用性や共同性
などは備えていないと思いますが国民や国家という存在は
全くのその逆の存在だと理解するからです。
(多くの第三世界で”全国規模の事業(特に非暴力での)”が成功した事例を僕は知りません、苦笑)
日本の場合は人種性という要素を上手く利用出来たんだと思いますが、その分、自国の国際化という
分野は言われている程進んではいないですよね?
(今回の元々の話題に関しては詳細を知りませんのでコメントは出来ません、スンマセン)
敢えて言うなら(外部から見た感想ですが)・・・・日本人、日本国民という普遍性を積極的に受け入れた
結果として個というモノを捨て去った・・・とも言えなくも無いのかなぁ?
・・・・この程度です、はい。
続きます・・・
これは メッセージ 62977 (lighter101rethgil さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019567/bpa5a4a5ia5afipno9tbbh_1/63066.html