排除と許容
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2005/01/10 01:12 投稿番号: [61563 / 118550]
>つまり物事でも人でもその本質により接近できるのはやはり愛情なのかなって思います。
ああ、そっちかあ・・。
「餅は餅屋。」「好きこそモノの上手なれ。」「継続は最大の力なり。」
「心に愛がなければ、どんなに大切な言葉でも、相手の心に響かない。(聖パウロの言葉より)」昔徹夜で勉強してたら早朝に流れてた、「ルーテルアワー」より。
全部違うかもしれない。(^▽^;)
・ ・・・しかし、近い将来に、もう一冊くらい、井筒さんの本も読んでみます。・・・ううう・・・。
>私達が他者と出会うとき(相手が自分と共有できる同質の人間か異質か)という判断が働いてそういった作用(了解)が排除されるものを生み出してしまう、それが暴力である、
ああ、そういう意味だったのかあ、・・やっとすっきりしました。ありがとうございました。
養老さんの言葉でも似たようなのが確かありましたよねえ?
前に書いたけど、人間が動物や、赤ん坊が恐いと感じるのは、彼等の行動の予測ができないと言うある種の恐怖感からくるものだと言うような・・。
しかし昔の人は、その異質なものは、「神」として崇拝の対象にしたんですよねえ?だから、日本のアニミズムなんかは、アメリカインディアンのトーテミズム(?)なんかと同質で、「排除」よりも「許容」の方向に向かうんじゃないでしたっけねえ?
どうもねえ、関係ないかもしれないけど、「E.T」なんかを排除する気持ちって、あのアメリカの大人の世界では常識のように描かれているけど、私なんかは、どうして受け入れないんだろうと、逆に不思議でした。アメリカ映画を見ていて、こういうことってよくありませんか?
・・・もしかしたら、この感覚の違いかもしれませんね?イラクの人たちを邪魔な異民族だから排除しようとする人たちと、受け入れられる人たちが存在すると感じているのは?
それとも単純に、これもキリスト教の「性悪説」的な側面からきているのかなあ?
これは メッセージ 61532 (so_what108 さん)への返信です.
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