アッサラームさん
投稿者: so_what108 投稿日時: 2005/01/08 18:34 投稿番号: [61506 / 118550]
興味深いリンクありがとうございました、特に印象深いのはこの一説でした。
>宗教の普遍的本質の指導についてはそのくらいである。宗教教育の教育課程には、自分の宗教とは異なる宗教の教義について学ぶ機会を取り入れるべきだ。この目的のために、生徒は世界の主な宗教の教理を敬意と寛大な広い心でもって理解し、共感を示す習慣を培う訓練を受けるべきである。もしこのことが適切に行われるならば、この訓練によって生徒は自らが信じる宗教をより確信を持って、より深く理解することができるようになる。しかし、これら主だった宗教を学ぶ際に常に忘れてはならない規則が一つある。それは、それぞれの宗教のために熱心に働いている有名な人が書いたものからのみ、その宗教について学ぶべきであるということだ。例えば、バガヴァッド(Bhagavata)を学びたければ、それを批判する者による翻訳ではなく、バガヴァッドの愛読者が書いた書物を用いるべきだ。同様に、聖書を学ぶには、敬虔なキリスト教徒が書いた解説書を使用して学ぶ必要がある。このように自分が信じる宗教の他にさらに別の宗教を学ぶことで、その人は、全ての宗教は最も奥深いところでつながっているという意識を持つようになり、教義・信仰といった塵のかなたに横たわる宇宙の絶対的真理というものについてもおぼろげながらわかってくるようになるであろう
最近ずっと(他者)との付き合い方みたいなことを考えていました。
今じっくり掲示板をロムしてたら、エトさんが非常によいことをおっしゃってるんですね、
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=552019567&tid=bpa5a4a5ia5afipno9tbbh&sid=552019567&mid=61426
エトさんがおっしゃってることはこれと同じようなことかと思いました。
>「了解は、存在の開けをとおして存在と係わりつつ、存在を起点として存在者の意味を見出す。このようにして了解は存在者に暴力をふるい、存在者を否定する。暴力とは部分否定である。存在者が消滅することなく私の支配下に入るという事態によって、否定のこの部分性は記述される。暴力という部分否定は、存在者の自存性を否定する。つまり、存在者は私の所有物となるのだ。所有とは、ある存在者が実存しつつも部分的に否定される様相である。(中略)他者との遭遇の本義は、私には対象を所有することができないという点に存している。すでにして私が身をおいている存在の開けは、私の自由の領域のごときものである。然るに、他者が全面的にこの領域に組み込まれることはない。他者が私と出会うのは、存在一般にもとづいてではない。他者のうちにあって、存在一般にもとづいて私に到来する要素はどれもみな、私による了解と所有に供される。他者の歴史、その環境、その習慣にもとづいて、私は他者を了解する。しかし、他者のうちで了解からこぼれ落ちるもの、それこそが他者であり存在者なのだ。私が存在者を部分的に否定しうるのは、存在一般にもとづいて存在者を把持し、それによって存在者を所有する場合に限られる。他者とは、その否定が全面的否定、つまり殺人としてしかありえないような唯一の存在者である。他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである。」
「私は殺したいと意欲しうる。ところが、この権能は、権能とは正反対のものである。この権能の勝利は、権能としてそれが敗北することである。殺したいという私の権能が実現されるまさにその瞬間、他者は私からすでに逃れてしまっているのだ。たしかに私は、殺すことで、ある目的を達成しうるし、獣を狩ったり射止めたりするのと同様に、樹木を伐採するのと同様に、殺すことができる。しかし、私が殺しうるのは、存在一般の開けのなかで、私の住む世界の構成要素として他者を捉え、地平線上に他者を認めたからである。私は他者を正面からは見なかった。私は他者の顔と出会わなかった。全面的否定への誘惑は、全面的否定の企ての際限のなさ並びにその不可能性の尺度であるが、かかる誘惑こそ顔の現前なのだ。他者と対面の関係を持つこと、それは殺せないということである。それはまた言説の境位でもある。」(「存在論は根源的か」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)
なんかややこしい文章ですが・・・・^^;この場合の(了解)は(他者へのレッテル貼り)と解釈するとよいかと思います。
つまりレヴィナスがここで言ってることは、簡単に言ってしまえば、他者をそのまま受容できるように自分が開かれていること、そして他者の(言葉)に素直に耳を傾けること、そんなようなことをいってるのだと思います
これは
>宗教の普遍的本質の指導についてはそのくらいである。宗教教育の教育課程には、自分の宗教とは異なる宗教の教義について学ぶ機会を取り入れるべきだ。この目的のために、生徒は世界の主な宗教の教理を敬意と寛大な広い心でもって理解し、共感を示す習慣を培う訓練を受けるべきである。もしこのことが適切に行われるならば、この訓練によって生徒は自らが信じる宗教をより確信を持って、より深く理解することができるようになる。しかし、これら主だった宗教を学ぶ際に常に忘れてはならない規則が一つある。それは、それぞれの宗教のために熱心に働いている有名な人が書いたものからのみ、その宗教について学ぶべきであるということだ。例えば、バガヴァッド(Bhagavata)を学びたければ、それを批判する者による翻訳ではなく、バガヴァッドの愛読者が書いた書物を用いるべきだ。同様に、聖書を学ぶには、敬虔なキリスト教徒が書いた解説書を使用して学ぶ必要がある。このように自分が信じる宗教の他にさらに別の宗教を学ぶことで、その人は、全ての宗教は最も奥深いところでつながっているという意識を持つようになり、教義・信仰といった塵のかなたに横たわる宇宙の絶対的真理というものについてもおぼろげながらわかってくるようになるであろう
最近ずっと(他者)との付き合い方みたいなことを考えていました。
今じっくり掲示板をロムしてたら、エトさんが非常によいことをおっしゃってるんですね、
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=552019567&tid=bpa5a4a5ia5afipno9tbbh&sid=552019567&mid=61426
エトさんがおっしゃってることはこれと同じようなことかと思いました。
>「了解は、存在の開けをとおして存在と係わりつつ、存在を起点として存在者の意味を見出す。このようにして了解は存在者に暴力をふるい、存在者を否定する。暴力とは部分否定である。存在者が消滅することなく私の支配下に入るという事態によって、否定のこの部分性は記述される。暴力という部分否定は、存在者の自存性を否定する。つまり、存在者は私の所有物となるのだ。所有とは、ある存在者が実存しつつも部分的に否定される様相である。(中略)他者との遭遇の本義は、私には対象を所有することができないという点に存している。すでにして私が身をおいている存在の開けは、私の自由の領域のごときものである。然るに、他者が全面的にこの領域に組み込まれることはない。他者が私と出会うのは、存在一般にもとづいてではない。他者のうちにあって、存在一般にもとづいて私に到来する要素はどれもみな、私による了解と所有に供される。他者の歴史、その環境、その習慣にもとづいて、私は他者を了解する。しかし、他者のうちで了解からこぼれ落ちるもの、それこそが他者であり存在者なのだ。私が存在者を部分的に否定しうるのは、存在一般にもとづいて存在者を把持し、それによって存在者を所有する場合に限られる。他者とは、その否定が全面的否定、つまり殺人としてしかありえないような唯一の存在者である。他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである。」
「私は殺したいと意欲しうる。ところが、この権能は、権能とは正反対のものである。この権能の勝利は、権能としてそれが敗北することである。殺したいという私の権能が実現されるまさにその瞬間、他者は私からすでに逃れてしまっているのだ。たしかに私は、殺すことで、ある目的を達成しうるし、獣を狩ったり射止めたりするのと同様に、樹木を伐採するのと同様に、殺すことができる。しかし、私が殺しうるのは、存在一般の開けのなかで、私の住む世界の構成要素として他者を捉え、地平線上に他者を認めたからである。私は他者を正面からは見なかった。私は他者の顔と出会わなかった。全面的否定への誘惑は、全面的否定の企ての際限のなさ並びにその不可能性の尺度であるが、かかる誘惑こそ顔の現前なのだ。他者と対面の関係を持つこと、それは殺せないということである。それはまた言説の境位でもある。」(「存在論は根源的か」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)
なんかややこしい文章ですが・・・・^^;この場合の(了解)は(他者へのレッテル貼り)と解釈するとよいかと思います。
つまりレヴィナスがここで言ってることは、簡単に言ってしまえば、他者をそのまま受容できるように自分が開かれていること、そして他者の(言葉)に素直に耳を傾けること、そんなようなことをいってるのだと思います
これは
これは メッセージ 61465 (assaraamaaleicomnjp さん)への返信です.
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