>この素晴らしき世界では
投稿者: battamother 投稿日時: 2004/12/24 01:44 投稿番号: [60319 / 118550]
>目先の)国益優先主義と愛国心は、別の問題ではありませんか?
>「うちの子は可愛いけども」ということと、「余所の子のことなど知ったことじゃない」という発想が、
>イコールであるとは、一概に言えないのではありませんか。
ここでいう『愛国心』というのは、同一ではありません。
前者の愛国心は、国益という言葉に換言され、国家(為政者)からみた愛国心です。
「うちの子は可愛いけども」というのは、為政者はもちろんだけど、どちらかと言えば国民感情における愛国心です。同類による「仲間意識」とも言えます。
ある意味、敵国があるから愛国心が芽生える。しかし、愛国心ゆえに、価値観や利害を別にする国を敵視するということはあり得ると思います。
但し、それは愛国心そのものというよりは、先にも述べたように、愛国心が高じた末の歪みがもたらすものだと思います。この時、『愛』の反動から『憎』が生じるのです
だから、愛国心そのものは悪ではないのです。何事も過ぎたるは…です。
>野生時代に学んだ「他者の不幸=自分の安全」という等式が我々のDNAに刻み込まれているからだと思うのですが
『利己的な遺伝子』なる本が出回っていますね。私は読んでいませんが。
つまりは、自己保存本能という動物の持つ根本的な生存本能ですね。全ての動物が持つ、基本的な脳の部位です。
>全員が不幸であるよりは、仲間だけは幸福であるほうが、まだマシではありませんか?
>その方便として、私たちは「愛国心」という団結も必要かもしれません。
それは否定はしません。
ただ、正確な表現は亡失しましたが、『民憂うるがゆえに、我もまた憂う』という意味の言葉があります。
たとえ、小さな虫一匹、動物一匹であっても、人間のエゴによって滅びていくことを知ったとき、自分が平穏な状況下にあっても、こころは平穏にはなれません。
ましてや、この地球のどこかで、その日の食べ物にも事欠いている人達がいるのを知って、毎日の食事の米粒一つをも残すことにも心が痛みます。(実際は残してる)
先日NHK放送を見た影響もあってか、今回米兵達が攻撃された様を見て、ショックを受けると同時に、助かった兵士達の不安な気持ちに思いを馳せました。
そういう意味で、自らが平穏な中にあっても、決して心まで平安ではありません。
もちろん、我が身に降りかかっていない限り、その平穏でない心も一過性のものに過ぎませんが。
映像も、相手方の背景も何も知らず、死者の数だけが一方的に入るだけなら、恐らくそこまで痛みを感じなかっただろうし、自分の中でバーチャルと化していただろうと思います。
現に、連日の交通事故の模様などにも、あまりにも馴れすぎている自分がいる。
つまりは、映像によって彼らの背景を少しでも垣間見たことで、『情が湧いた』ということなのでしょう。
そういう意味でも、先日のNHKのドキュメンタリーのような番組の意味は大きい。
私達は、自己保存の利己的なDNAと同時に、ひとつのところから分派した同胞だという記憶のDNAも持ち合わせていると思います。
>「うちの子は可愛いけども」ということと、「余所の子のことなど知ったことじゃない」という発想が、
>イコールであるとは、一概に言えないのではありませんか。
ここでいう『愛国心』というのは、同一ではありません。
前者の愛国心は、国益という言葉に換言され、国家(為政者)からみた愛国心です。
「うちの子は可愛いけども」というのは、為政者はもちろんだけど、どちらかと言えば国民感情における愛国心です。同類による「仲間意識」とも言えます。
ある意味、敵国があるから愛国心が芽生える。しかし、愛国心ゆえに、価値観や利害を別にする国を敵視するということはあり得ると思います。
但し、それは愛国心そのものというよりは、先にも述べたように、愛国心が高じた末の歪みがもたらすものだと思います。この時、『愛』の反動から『憎』が生じるのです
だから、愛国心そのものは悪ではないのです。何事も過ぎたるは…です。
>野生時代に学んだ「他者の不幸=自分の安全」という等式が我々のDNAに刻み込まれているからだと思うのですが
『利己的な遺伝子』なる本が出回っていますね。私は読んでいませんが。
つまりは、自己保存本能という動物の持つ根本的な生存本能ですね。全ての動物が持つ、基本的な脳の部位です。
>全員が不幸であるよりは、仲間だけは幸福であるほうが、まだマシではありませんか?
>その方便として、私たちは「愛国心」という団結も必要かもしれません。
それは否定はしません。
ただ、正確な表現は亡失しましたが、『民憂うるがゆえに、我もまた憂う』という意味の言葉があります。
たとえ、小さな虫一匹、動物一匹であっても、人間のエゴによって滅びていくことを知ったとき、自分が平穏な状況下にあっても、こころは平穏にはなれません。
ましてや、この地球のどこかで、その日の食べ物にも事欠いている人達がいるのを知って、毎日の食事の米粒一つをも残すことにも心が痛みます。(実際は残してる)
先日NHK放送を見た影響もあってか、今回米兵達が攻撃された様を見て、ショックを受けると同時に、助かった兵士達の不安な気持ちに思いを馳せました。
そういう意味で、自らが平穏な中にあっても、決して心まで平安ではありません。
もちろん、我が身に降りかかっていない限り、その平穏でない心も一過性のものに過ぎませんが。
映像も、相手方の背景も何も知らず、死者の数だけが一方的に入るだけなら、恐らくそこまで痛みを感じなかっただろうし、自分の中でバーチャルと化していただろうと思います。
現に、連日の交通事故の模様などにも、あまりにも馴れすぎている自分がいる。
つまりは、映像によって彼らの背景を少しでも垣間見たことで、『情が湧いた』ということなのでしょう。
そういう意味でも、先日のNHKのドキュメンタリーのような番組の意味は大きい。
私達は、自己保存の利己的なDNAと同時に、ひとつのところから分派した同胞だという記憶のDNAも持ち合わせていると思います。
これは メッセージ 60310 (welcome2thecivilization さん)への返信です.
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