あげた手をおろす。これが最後
投稿者: spica_022 投稿日時: 2004/08/14 11:54 投稿番号: [50509 / 118550]
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アフガニスタンでは「戦争」がまだ続いている。挙げた手を、いつ収めればよいか、事態の収拾の時期をブッシュはつかみかねている。最近の世論調査によれば、「ビンラディンを拘束するか殺すまで、空爆をつづけるべきだ」という意見に、アメリカの多数派が賛成したという。テロ対策、つまり「自衛」が、この正統性のない攻撃の大義名分だから、「敵」将の首級を挙げなければ、矛を収めることはできないのだ。
しかもこの機に乗じて、「テロとの闘い」の名のもとに、イスラエル政府によるパレスティナへのあからさまな武力攻撃が始まった。ゲリラ的な攻撃や自爆テロに対する「報復」として民間人の住む街や施設が破壊され、犠牲者が出る。アメリカのアフガニスタン攻撃と同じ論理、同じやりくちである。そしてアメリカとおなじく、それをおししとどめる力はどこにもない。アメリカは「テロ対策」と称して、フィリピンにも軍隊を送り、軍事行動を開始した。「テロとの闘い」という名目さえあれば、アメリカの軍隊は世界中いたるところに主権を無視しても軍事行動をおこすことができる。「パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)」が、あからさまな暴力で支えられていることを、こんなに目に見えるようにしたのが、ポスト冷戦の効果なのだろうか。
アフガニスタンの人々にしてみれば、犯人だという証拠もなくどこにいるか所在もあきらかでないビンラディンという、しかも外国人のために壊滅的な打撃を受けることになった。ピンポイントというが、爆撃は軍事施設だけを破壊するわけではない。その下にいる人間を殺傷し、民間人を犠牲にする。アフガニスタンで犠牲になった6万人といわれる人々は、いったい何のために死ななければならなかったのだろうか?
空爆の恐怖を覚えている人々が日本にはいる。そのひとたちは、空爆下のアフガニスタンの人々に、半世紀前の自分のすがたを重ね合わせている。
「アフガンの空爆の報を目にしては沖縄戦を生きのびし母むせび泣く」」
東京大空襲では10万人の人々が死んだ。主として民間人だ。空爆は第2次世界大戦のときにドイツがはじめに考案し、ただちにイギリスが採用し、アメリカが追随した。しかも民間人を直撃する都市のじゅうたん爆撃だ。なぜこんな無法な攻撃方法が、戦争犯罪と見なされなかったのだろう? 非人道的攻撃と? だが、日本という国は、核兵器さえ非人道兵器と主張することのできない国だ。
しかしただちに次のような問いが浮かぶ。合法な戦争というものはあるのだろうか。人道的な攻撃は? 戦争犯罪というからには、犯罪にならない戦争があるのだろうか? 戦争犯罪というかわりに、どうしてわたしたちは、戦争が犯罪だ、ということができないのだろう?
日本人の一国平和主義とは言われたくない。女は本質的に平和主義者だとも信じない。もしわたしたちが今でもそしてこれからもフェミニストをなのりつづけるなら・・・憲法ナショナリズムにもジェンダー本質主義にもよらない非戦・非暴力の論理を構築することが、思想としてのフェミニズムに求められている。もしあらゆる暴力が犯罪だ、と言うことができなければ、わたしたちはDVすら解決することができないのではないだろうか。
アフガニスタンでは「戦争」がまだ続いている。挙げた手を、いつ収めればよいか、事態の収拾の時期をブッシュはつかみかねている。最近の世論調査によれば、「ビンラディンを拘束するか殺すまで、空爆をつづけるべきだ」という意見に、アメリカの多数派が賛成したという。テロ対策、つまり「自衛」が、この正統性のない攻撃の大義名分だから、「敵」将の首級を挙げなければ、矛を収めることはできないのだ。
しかもこの機に乗じて、「テロとの闘い」の名のもとに、イスラエル政府によるパレスティナへのあからさまな武力攻撃が始まった。ゲリラ的な攻撃や自爆テロに対する「報復」として民間人の住む街や施設が破壊され、犠牲者が出る。アメリカのアフガニスタン攻撃と同じ論理、同じやりくちである。そしてアメリカとおなじく、それをおししとどめる力はどこにもない。アメリカは「テロ対策」と称して、フィリピンにも軍隊を送り、軍事行動を開始した。「テロとの闘い」という名目さえあれば、アメリカの軍隊は世界中いたるところに主権を無視しても軍事行動をおこすことができる。「パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)」が、あからさまな暴力で支えられていることを、こんなに目に見えるようにしたのが、ポスト冷戦の効果なのだろうか。
アフガニスタンの人々にしてみれば、犯人だという証拠もなくどこにいるか所在もあきらかでないビンラディンという、しかも外国人のために壊滅的な打撃を受けることになった。ピンポイントというが、爆撃は軍事施設だけを破壊するわけではない。その下にいる人間を殺傷し、民間人を犠牲にする。アフガニスタンで犠牲になった6万人といわれる人々は、いったい何のために死ななければならなかったのだろうか?
空爆の恐怖を覚えている人々が日本にはいる。そのひとたちは、空爆下のアフガニスタンの人々に、半世紀前の自分のすがたを重ね合わせている。
「アフガンの空爆の報を目にしては沖縄戦を生きのびし母むせび泣く」」
東京大空襲では10万人の人々が死んだ。主として民間人だ。空爆は第2次世界大戦のときにドイツがはじめに考案し、ただちにイギリスが採用し、アメリカが追随した。しかも民間人を直撃する都市のじゅうたん爆撃だ。なぜこんな無法な攻撃方法が、戦争犯罪と見なされなかったのだろう? 非人道的攻撃と? だが、日本という国は、核兵器さえ非人道兵器と主張することのできない国だ。
しかしただちに次のような問いが浮かぶ。合法な戦争というものはあるのだろうか。人道的な攻撃は? 戦争犯罪というからには、犯罪にならない戦争があるのだろうか? 戦争犯罪というかわりに、どうしてわたしたちは、戦争が犯罪だ、ということができないのだろう?
日本人の一国平和主義とは言われたくない。女は本質的に平和主義者だとも信じない。もしわたしたちが今でもそしてこれからもフェミニストをなのりつづけるなら・・・憲法ナショナリズムにもジェンダー本質主義にもよらない非戦・非暴力の論理を構築することが、思想としてのフェミニズムに求められている。もしあらゆる暴力が犯罪だ、と言うことができなければ、わたしたちはDVすら解決することができないのではないだろうか。
これは メッセージ 50508 (spica_022 さん)への返信です.
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