訂正とつづき。あげた手をおろす
投稿者: spica_022 投稿日時: 2004/08/14 11:52 投稿番号: [50508 / 118550]
すいません、URLが思いっきり割れました。こちらで見てください。
http://www.impala.jp/century/column/clm_070.html
*
新聞の投稿欄に、女性のつぶやきが載っている。アメリカのアフガニスタン攻撃に批判的な感想をもらした彼女に、夫は声をあらげてこう言った、という。
「だからって、何もしないわけにはいかないだろう?」
アメリカの男は、アメリカの女たちも、おなじように言う。アメリカのフェミニストもそういう。
「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」
わたしはそれを聞くたびに思う。アメリカのフェミニストは、フェミニストである以前に、アメリカ主義者だ、と。彼女たちはいったい何をしているのだろうか? 声が聞こえてこない。そう思っていると、タリバーンが女性から職をとりあげ、教育を禁止し、ブルカを強制した性差別者だ、だから攻撃してもよい・・・という声がとどく。わたしのきもちわるさは募る。これがフェミニズム? 武器と暴力でおしつけられる「解放」って何だろう? フェミニズムとは、他者の救済ではなく自己解放、なによりも自己定義権のかくとくのことではなかっただろうか? 「これがあなたにとって解放よ」と、当事者以外のだれが、アフガニスタンの女に「教えてやる」ことができるだろう?
理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみながら拳をおろす。そんな経験を、わたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。夫に殴られつづける妻も、食ってかかって反撃したりはしない。なぜか。自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力なものには親しい。
「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」
そう言えるのは強者の権利。強大な軍事力という危険な道具を手にしたもののおごり。
わたしは湾岸戦争のときにあるアメリカのフェミニストと、激しい議論をしたことを思い出す。湾岸戦争を批判したわたしに、彼女はこう言ったのだ。
「だったらあなたはフセインの蛮行をだまって見ていろ、というの?」
そう。そのとおり。ヒロシマの人々は、アメリカの蛮行をされるがままに受け容れた。ニカラグァの人々もアメリカの侵攻を黙って耐えた。なぜなら・・・無力だったからだ。
もしあなたが無力なら、あなたは反撃しようとはしないだろう。なぜなら反撃する能力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその能力があるときにかぎられる。そしてその力とは、軍事力、つまり相手を有無を言わさずたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。
反撃の道が封じられているとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう? 問いは、ほんとうはここから始まるはずだ。
わたしはフェミニズムを、ずっと弱者の思想だと思ってきた。もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。弱者が弱者のままで、それでも尊重されることを求める思想が、フェミニズムだと、わたしは考えてきた。
だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じようにちからづくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。弱者の解放は、「抑圧者に似る」ことではない。
http://www.impala.jp/century/column/clm_070.html
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新聞の投稿欄に、女性のつぶやきが載っている。アメリカのアフガニスタン攻撃に批判的な感想をもらした彼女に、夫は声をあらげてこう言った、という。
「だからって、何もしないわけにはいかないだろう?」
アメリカの男は、アメリカの女たちも、おなじように言う。アメリカのフェミニストもそういう。
「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」
わたしはそれを聞くたびに思う。アメリカのフェミニストは、フェミニストである以前に、アメリカ主義者だ、と。彼女たちはいったい何をしているのだろうか? 声が聞こえてこない。そう思っていると、タリバーンが女性から職をとりあげ、教育を禁止し、ブルカを強制した性差別者だ、だから攻撃してもよい・・・という声がとどく。わたしのきもちわるさは募る。これがフェミニズム? 武器と暴力でおしつけられる「解放」って何だろう? フェミニズムとは、他者の救済ではなく自己解放、なによりも自己定義権のかくとくのことではなかっただろうか? 「これがあなたにとって解放よ」と、当事者以外のだれが、アフガニスタンの女に「教えてやる」ことができるだろう?
理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみながら拳をおろす。そんな経験を、わたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。夫に殴られつづける妻も、食ってかかって反撃したりはしない。なぜか。自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力なものには親しい。
「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」
そう言えるのは強者の権利。強大な軍事力という危険な道具を手にしたもののおごり。
わたしは湾岸戦争のときにあるアメリカのフェミニストと、激しい議論をしたことを思い出す。湾岸戦争を批判したわたしに、彼女はこう言ったのだ。
「だったらあなたはフセインの蛮行をだまって見ていろ、というの?」
そう。そのとおり。ヒロシマの人々は、アメリカの蛮行をされるがままに受け容れた。ニカラグァの人々もアメリカの侵攻を黙って耐えた。なぜなら・・・無力だったからだ。
もしあなたが無力なら、あなたは反撃しようとはしないだろう。なぜなら反撃する能力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその能力があるときにかぎられる。そしてその力とは、軍事力、つまり相手を有無を言わさずたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。
反撃の道が封じられているとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう? 問いは、ほんとうはここから始まるはずだ。
わたしはフェミニズムを、ずっと弱者の思想だと思ってきた。もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。弱者が弱者のままで、それでも尊重されることを求める思想が、フェミニズムだと、わたしは考えてきた。
だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じようにちからづくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。弱者の解放は、「抑圧者に似る」ことではない。
これは メッセージ 50507 (spica_022 さん)への返信です.
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