対イラク武力行使

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

私には荷が重いです。>ナンチャッテさん

投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2004/07/30 17:18 投稿番号: [48159 / 118550]
先日も書きましたが、オバカな私が考える範疇を越えていますから、私が何か答えることに、意味を見いだそうとしているのであれば、無駄ですし、私のオバカを晒そうとお考えでしたら、これもまた周知のことですから無駄なことですよ?(~_~;)


>そして私はイルファーンに至る為に、まず概念(鏡)の存在に
気付く必要があると思います。

イルファンと言うと、サッカー選手しか思い浮かべない私は、ちょっと貴方のお話には、付いていけそうもありませんが、しかし理解しようとはしてみますね?(~_~;)
「自分が世界を見ている自分を眺める」と言う世界観は、やはり唯識の世界ですよねえ?この認識があってこそのハタミさんが言うところの同一言語外での世界観の共通認識が想定できるわけですよねえ?


>こうなると、概念の外に「自我と言う太い柱」が立つわけですから
>概念帯に詰め込まれた様々な知識は、
>全て自我と言う柱に有機的なつながりを持ち始めます。

仮定の問題とすればそうなのかもしれません。


>「一を聞いて十を識る」「一芸に秀でる者は多芸に通ず」
この感覚はここから来ていると考えます。

「一芸に秀でるものは、全芸に通じるというわけではない」ところが味噌ですよねえ?


>?結論として、存在の根本が「一神にして多神」であるならば、
>一神に向けての歩みである悟りの道は
>深さ高さにおいて違いはあれども、方向性と入り口は同一になる。
>そして悟りが深くなればなるほど、一神に近くなる為
>「絶対的なもの、自己完結的なもの、没自我的なもの」に近づくのではない>かと思います。

ウ〜〜〜ン、私には何とも言えませんが、貴方のこの論理立てが、非常にバーチャルな、観念的なお話なので、勉強不足でオバカな私には同意できうるものがありません。私にとっての釈迦は、もっと唯物論者であり、そういう意味でリアリストであるということだけしか言えません。

ブラフマンとか、毘盧遮那仏とかを、「一神」と言う概念で見ることの妥当性というか、そもそも、神という概念を、キリスト教と仏教で同一視できるのか?と言う問題。
「神というものに向けての歩み」=「悟りの道」と言うコンセンサスがとれているのかどうか等々、未だ悟ると言う経験もしたことさえ出来ていない私にはわからないことばかりです。


>すなわち、概念上(世界の被造物は鏡の中に映し出された形姿)に
>醸成した文化や宗教、民族は多種多様ですが、
>全て一神と言う同じ根をもっている訳です


こういう仮定が、実際に存在するとしたら、これは非常に面白いと思いますが、今のところ、貴方のお話を、否定も肯定も出来ませんとだけお答えしておきます。

いずれにしても、「悟り」と言うものは、「突き抜ける」とか「打ち破る」とか「再生する」とか言うような意味合いも持っていると(個人的には)考えられますから、その「突き抜ける対象」、「打ち破る対象」「サナギから変態するときの幼虫やサナギの状態」と言う相対的な意味での「対象」を前提としているという意味で、それが神の方向に向っているかどうかは抜きにして、ある種の方向性を示していることはマチガイナイということには、同意いたします。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)