「少女の髪どめ」を見ました。
投稿者: kusukusu552000 投稿日時: 2003/05/04 14:35 投稿番号: [26157 / 118550]
アフガン難民の少女を描いた、イラン映画『少女の髪どめ』感想です。
こんな名セリフがありました。
「孤独な男の隣りには神様がいる」
劣悪な環境の工事現場で働くイランの若い男が、同じ現場で女性であることを隠して男のふりして働くアフガン難民の少女に恋をしてしまうという設定の話で、つい清々しい純愛ものを見たという風に言ってしまいたくなる作品かもしれない。
しかし、主人公の男はお金を使ってその愛情を成就させようとドタバタしているのであり(少女に気付かれないようにする形で裏でお金で事態を解決しようとする)、これはある意味では、我が国、日本で、まるで女性にもてない男が援助交際に手を出したりするのと実は通じるところがあるような気もしないではないが(ちょっと違うかな?変なたとえですみません。)、それが、悲惨な戦争による被害者の人の話だからなどということで「清々しい」と受け取るのだと言うならば、そのように受け取ってしまうこと自体に、アメリカの戦争に加担している国の国民としては本当はジレンマを感じないといけないような気もする。
そもそもこの作品の、工事現場のプロットはむしろ現実を告発しようとするものであるのであって、清々しいといった詩情に浸っている場合なのであろうか?
でも、どのような状況下でも恋が生まれるということこそが、現実を踏まえつつも「清々しい」ことではないか?と言いたくなる、はやる気持ちから、やっぱり「清々しい」恋愛映画の傑作の誕生だと断言してしまいたい気持ちも押さえることは出来ない。
だが、ちょっと考えてみよう。
本当はこうしたきびしい状況下だからこそ、恋情が生まれるのではないか?
そして、力のない「孤独な男」だからこそ、相手に「与えること」で愛を成就させようとする術を身に付け覚えようとして行くのかもしれない。
そうすると、逆に言うと、アメリカが相手から「奪うこと」にばかりとりつかれている限り、「与えること」を身に付けない限り、アメリカは愛を得られないのではないだろうか?
「奪うこと」と「与えること」。この相関関係に人間と人間の交流がある。
そして、ダイナミズムを持つ激しい描写(雨風の激しい描写など)を基盤にしつつ、細部にまで「詩情」として結実をしている描写の数々に触れる時、男と女の気持ちの交歓(もしくは「交換」と言ってもいい。「交歓」でなく「交換」だというのが「現実」というものかもしれないから。)を感じ、ついには覆われるブルカでさえも恋愛表現を漂わせてしまうことを認めるしかない。
また、ここに描かれる難民労働者の話は、サスキア・サッセン(シカゴ大学教授)の『グローバリゼーションの時代』の裏表紙の次のような言葉を思い起こさせもする。
『グローバル経済の活動は、具体的な空間=場をもっている。そこでは国民国家の成立原理たる「領土」と「主権」は掘り崩され、グローバルとナショナルの二項対立を超えて、国家の権力装置そのものが新たな権力レジームに組み替えられていく。経済の統合による世界の仮想実質化、法の分野の「アメリカナイゼーション」、越境する人の移動がもたらす「国民」の再定義など、グローバリゼーションが先鋭になるさまざまな側面がすでに進行している。人権や民主主義といった錆び付いた近代的概念は、グローバルな権力にいかに対抗しうるのだろうか -- 。』
こんな名セリフがありました。
「孤独な男の隣りには神様がいる」
劣悪な環境の工事現場で働くイランの若い男が、同じ現場で女性であることを隠して男のふりして働くアフガン難民の少女に恋をしてしまうという設定の話で、つい清々しい純愛ものを見たという風に言ってしまいたくなる作品かもしれない。
しかし、主人公の男はお金を使ってその愛情を成就させようとドタバタしているのであり(少女に気付かれないようにする形で裏でお金で事態を解決しようとする)、これはある意味では、我が国、日本で、まるで女性にもてない男が援助交際に手を出したりするのと実は通じるところがあるような気もしないではないが(ちょっと違うかな?変なたとえですみません。)、それが、悲惨な戦争による被害者の人の話だからなどということで「清々しい」と受け取るのだと言うならば、そのように受け取ってしまうこと自体に、アメリカの戦争に加担している国の国民としては本当はジレンマを感じないといけないような気もする。
そもそもこの作品の、工事現場のプロットはむしろ現実を告発しようとするものであるのであって、清々しいといった詩情に浸っている場合なのであろうか?
でも、どのような状況下でも恋が生まれるということこそが、現実を踏まえつつも「清々しい」ことではないか?と言いたくなる、はやる気持ちから、やっぱり「清々しい」恋愛映画の傑作の誕生だと断言してしまいたい気持ちも押さえることは出来ない。
だが、ちょっと考えてみよう。
本当はこうしたきびしい状況下だからこそ、恋情が生まれるのではないか?
そして、力のない「孤独な男」だからこそ、相手に「与えること」で愛を成就させようとする術を身に付け覚えようとして行くのかもしれない。
そうすると、逆に言うと、アメリカが相手から「奪うこと」にばかりとりつかれている限り、「与えること」を身に付けない限り、アメリカは愛を得られないのではないだろうか?
「奪うこと」と「与えること」。この相関関係に人間と人間の交流がある。
そして、ダイナミズムを持つ激しい描写(雨風の激しい描写など)を基盤にしつつ、細部にまで「詩情」として結実をしている描写の数々に触れる時、男と女の気持ちの交歓(もしくは「交換」と言ってもいい。「交歓」でなく「交換」だというのが「現実」というものかもしれないから。)を感じ、ついには覆われるブルカでさえも恋愛表現を漂わせてしまうことを認めるしかない。
また、ここに描かれる難民労働者の話は、サスキア・サッセン(シカゴ大学教授)の『グローバリゼーションの時代』の裏表紙の次のような言葉を思い起こさせもする。
『グローバル経済の活動は、具体的な空間=場をもっている。そこでは国民国家の成立原理たる「領土」と「主権」は掘り崩され、グローバルとナショナルの二項対立を超えて、国家の権力装置そのものが新たな権力レジームに組み替えられていく。経済の統合による世界の仮想実質化、法の分野の「アメリカナイゼーション」、越境する人の移動がもたらす「国民」の再定義など、グローバリゼーションが先鋭になるさまざまな側面がすでに進行している。人権や民主主義といった錆び付いた近代的概念は、グローバルな権力にいかに対抗しうるのだろうか -- 。』
これは メッセージ 26041 (kusukusu552000 さん)への返信です.
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