精神面での指導者・・・-1
投稿者: asean_peace11 投稿日時: 2004/08/21 09:32 投稿番号: [1416 / 1982]
ろんろんさん
おはようございます。
ろんろんさんのこの投稿で僕が気がついたことを、
ちょっとお話しますね。
>今、イラクで師と仰がれ精神的な面で指導力を発揮できる人物は
いないものなのでしょうか?
多分ですね、多くの人達が(特に先進国と呼ばれる諸国の)大きく誤解している
ことがあると思うんです。
現在、イラクで武力抵抗しているサドル一派にしても精神が病んでいたり
疲弊しているから武力抵抗している訳ではないので
精神的指導者を彼らが求めていると誤解しないでほしいと思うんです。
それはですね、宗教と生活が密着しているということをその宗教が
生活や人生の全ての”中心にある”と認識しているとするなら僕は
それは誤解の元になると考えるんです。
密着しているという状況は、中心にある訳じゃなくて、その人間が
生まれて死ぬ迄の間、周囲に漠然と空気のように存在していながら
不可侵な存在としてあるので、生活と密着していると表現するのだと思います。
ですから、そういう地域では宗教は自己が成立するバックボーンでも
足場でも無くて、全ての考え方や行動に付随した”信じる存在”として
当り前のように自分の周囲にある、としか考えていない。
例えば、イスラム教でもヒンドゥー教でも上座部仏教でもですね
宗教自体は民衆のモノではない訳です、つまりイスラム教自身が僧侶的なモノを
認めていない訳ですが、誰でもが真摯にコーランをより深く研究し理解出来ている
者が祭事的なモノを司って良いことになっていますし、ヒンドゥーでは
修行者で、上座部仏教では出家者がその教義の深遠に辿り着くとしてますよね・・・
ですから、その本質部分は大衆救済の為の宗教ではないんですよ。
一般大衆はアッラーの教えが書かれたコーランは信じている、お経が
書かれた仏典は信じてますが、それ自体は難し過ぎてそのまま理解出来るモノでは
ないですから、信じてはいるでしょうが自分の実生活との間にそれらの
関係性を見出すことが出来るか?となるとかなり難しい。
イスラム教の場合は、表現は悪いですが”細則”が多岐に渡り過ぎて(抽象的な
表現だけでは、後で述べる僧侶的な存在を容認することになってしまいますから)
その細則を抜き出して注釈が出来る人間であれば良いとしたと思います。
(それでも、内容が多岐に渡って膨大ですから、専門にコーランを研究しない
限りは、実生活と関連した箇所を抜粋してその関連付けを説明出来るものでは
ないと思います・・・が故に宗教指導者という知的特権階級が出来上がる、っと
僕は理解しています)
なので、物質文明が先鋭化して精神的充足感みたいなモノを宗教的なモノや哲学的なモノ
に求める傾向が強い先進諸国の人間と同じ尺度で彼らの精神性を判断しようと
しない方がいい訳です。
(そんな訳の分からん理屈はいらん訳です、早い話が、イスラム教徒はアッラーと
コーランを信じているし仏教とは仏様を信じている・・これ以上の精神的支柱も
指導者も必要が無いのです・・つまり精神的に揺らぐ必要性が無い、ということです)
(そういった信じるモノを持っている人間を持っていない人間が見ると、
誇り高い人間には見えるでしょうね、なぜならイスラム教徒も仏教徒も自分自身の
現世での存在を疑ったりはしないですからね)
イスラム教ではコーランに書かれていることはこういうことだ、と説明してくれる
”宗教指導者”や仏陀の教えを”元に”こうした方がいいよ、とかアッチはまずいよっと
教えてくれる”僧侶”には敬意は払っても、四六時中そうした宗教指導者やそう僧侶と
一緒に居る訳ではない。
礼拝にしても、節目ごとのお参りにしても”アッラーや仏様を忘れてはいけない”と
言うことに主眼が置かれている。
もしも、中東の人間でも、タイ人でもイスラム教の教義や上座部仏教を本当に
精神面での支えや道徳規範としているなら、犯罪も貧困も階級さえも存在していない
はずですし汚職さえも無い世界になっていたはずなんだけど、当り前にある訳です。
続きます
おはようございます。
ろんろんさんのこの投稿で僕が気がついたことを、
ちょっとお話しますね。
>今、イラクで師と仰がれ精神的な面で指導力を発揮できる人物は
いないものなのでしょうか?
多分ですね、多くの人達が(特に先進国と呼ばれる諸国の)大きく誤解している
ことがあると思うんです。
現在、イラクで武力抵抗しているサドル一派にしても精神が病んでいたり
疲弊しているから武力抵抗している訳ではないので
精神的指導者を彼らが求めていると誤解しないでほしいと思うんです。
それはですね、宗教と生活が密着しているということをその宗教が
生活や人生の全ての”中心にある”と認識しているとするなら僕は
それは誤解の元になると考えるんです。
密着しているという状況は、中心にある訳じゃなくて、その人間が
生まれて死ぬ迄の間、周囲に漠然と空気のように存在していながら
不可侵な存在としてあるので、生活と密着していると表現するのだと思います。
ですから、そういう地域では宗教は自己が成立するバックボーンでも
足場でも無くて、全ての考え方や行動に付随した”信じる存在”として
当り前のように自分の周囲にある、としか考えていない。
例えば、イスラム教でもヒンドゥー教でも上座部仏教でもですね
宗教自体は民衆のモノではない訳です、つまりイスラム教自身が僧侶的なモノを
認めていない訳ですが、誰でもが真摯にコーランをより深く研究し理解出来ている
者が祭事的なモノを司って良いことになっていますし、ヒンドゥーでは
修行者で、上座部仏教では出家者がその教義の深遠に辿り着くとしてますよね・・・
ですから、その本質部分は大衆救済の為の宗教ではないんですよ。
一般大衆はアッラーの教えが書かれたコーランは信じている、お経が
書かれた仏典は信じてますが、それ自体は難し過ぎてそのまま理解出来るモノでは
ないですから、信じてはいるでしょうが自分の実生活との間にそれらの
関係性を見出すことが出来るか?となるとかなり難しい。
イスラム教の場合は、表現は悪いですが”細則”が多岐に渡り過ぎて(抽象的な
表現だけでは、後で述べる僧侶的な存在を容認することになってしまいますから)
その細則を抜き出して注釈が出来る人間であれば良いとしたと思います。
(それでも、内容が多岐に渡って膨大ですから、専門にコーランを研究しない
限りは、実生活と関連した箇所を抜粋してその関連付けを説明出来るものでは
ないと思います・・・が故に宗教指導者という知的特権階級が出来上がる、っと
僕は理解しています)
なので、物質文明が先鋭化して精神的充足感みたいなモノを宗教的なモノや哲学的なモノ
に求める傾向が強い先進諸国の人間と同じ尺度で彼らの精神性を判断しようと
しない方がいい訳です。
(そんな訳の分からん理屈はいらん訳です、早い話が、イスラム教徒はアッラーと
コーランを信じているし仏教とは仏様を信じている・・これ以上の精神的支柱も
指導者も必要が無いのです・・つまり精神的に揺らぐ必要性が無い、ということです)
(そういった信じるモノを持っている人間を持っていない人間が見ると、
誇り高い人間には見えるでしょうね、なぜならイスラム教徒も仏教徒も自分自身の
現世での存在を疑ったりはしないですからね)
イスラム教ではコーランに書かれていることはこういうことだ、と説明してくれる
”宗教指導者”や仏陀の教えを”元に”こうした方がいいよ、とかアッチはまずいよっと
教えてくれる”僧侶”には敬意は払っても、四六時中そうした宗教指導者やそう僧侶と
一緒に居る訳ではない。
礼拝にしても、節目ごとのお参りにしても”アッラーや仏様を忘れてはいけない”と
言うことに主眼が置かれている。
もしも、中東の人間でも、タイ人でもイスラム教の教義や上座部仏教を本当に
精神面での支えや道徳規範としているなら、犯罪も貧困も階級さえも存在していない
はずですし汚職さえも無い世界になっていたはずなんだけど、当り前にある訳です。
続きます
これは メッセージ 1414 (lonlontimago さん)への返信です.
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