>真の平和なぞ来ない
投稿者: battamama 投稿日時: 2005/03/27 14:30 投稿番号: [413 / 1657]
一般的に、聖書に求めるものは人それぞれでしょうし、解釈も人それぞれ。
新約聖書は例え話のオンパレード。逆にそれが誤解を生む元になっている感があります。
少なくとも私は聖書を道徳や倫理の書だとは思っていないし、ましてや俗に言う宗教だとも思っていません。
>聖書なぞ読んだことがないが
まず聖書に関して物申すには、聖書を読んでからでしょう。それが基本姿勢だと思います。
>それにしても↓の言葉.虚しいねぇ,人間がもつ動物性は,
>未来永劫なくならないのにさ.
非常に唯物的ですね。
私の言う「真の平和」とは、三次元的意味で言っているわけではありません。それなら「平和」という言葉だけで十分です。
敢えて「真の」という言葉を付けた意味を理解して下さい。
あくまでも、人類の意識の進化に関して述べているわけで、それは必ずしも地球に意識を固定された人間のレベルだけを指しているわけではありません。
イエスや釈迦がそうだったように、もっと神秘的な意味を含んでいます。彼らは最初から仏陀であり、キリストだったわけではありません。長い転生による意識の進化の末にそうなっていったのです。私達も同様の道を辿っています。
私は「聖書」も、同様の意味合いで読み解いています。聖書のところどころに、「真の平和」とは何かを示唆する言葉が散らばっています。
最も、輪廻転生などない。人間は死んだらそれで終わりだという唯物思考の人達には、この話は通じませんが。
何度も言いますが、聖書の神髄は道徳でも倫理でも、俗に言う宗教でもありません。
キリスト教では輪廻転生を認めていません。聖書からも、それを肯定するような内容はほとんど見あたりません。
しかし、時の権力者なりがその意味を解せなかったのか、一部輪廻転生を示唆している表現が残っています。
マタイによる福音書第17章にある「山上の垂訓」です。
『彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。(中略)そのとき、弟子たちは、イエスがバプティスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。』
非常に神秘的な表現です。これをどう解釈するかは、やはりその人の意識体験の質と量としか言いようがありません。
最後に、オウム真理教に心酔した若者達を、十把一絡げに無知な宗教依存と決めつけるのは理解が足りないと思います。
確かに、そのような人達も多かったでしょう。
しかし、より高度に精神の発達した者達も、オウムという闇に取り込まれるという過ちを犯したということです。つまりは識別を誤ったのです。
「悪魔は99の真理を説く」
完全なる目覚めが無い限り、人間はどこまでも間違うものです。イエスの荒野でのサタンの誘惑もこれに符合するものです。
釈迦も出家の後、悟りの為に荒行をするという勘違いを為し、その結果生死を彷徨いました。
菩提樹の下で瞑そう中、釈迦もサタンの誘惑に遭ったとされています。(幻惑)
たとえ一瞬であれ、イエスや釈迦でさえ、その誘惑に揺れたということです。
そのような意味からも、オウム信者の全てを、唯物的単純な思考基準で判断することはできないということです。
新約聖書は例え話のオンパレード。逆にそれが誤解を生む元になっている感があります。
少なくとも私は聖書を道徳や倫理の書だとは思っていないし、ましてや俗に言う宗教だとも思っていません。
>聖書なぞ読んだことがないが
まず聖書に関して物申すには、聖書を読んでからでしょう。それが基本姿勢だと思います。
>それにしても↓の言葉.虚しいねぇ,人間がもつ動物性は,
>未来永劫なくならないのにさ.
非常に唯物的ですね。
私の言う「真の平和」とは、三次元的意味で言っているわけではありません。それなら「平和」という言葉だけで十分です。
敢えて「真の」という言葉を付けた意味を理解して下さい。
あくまでも、人類の意識の進化に関して述べているわけで、それは必ずしも地球に意識を固定された人間のレベルだけを指しているわけではありません。
イエスや釈迦がそうだったように、もっと神秘的な意味を含んでいます。彼らは最初から仏陀であり、キリストだったわけではありません。長い転生による意識の進化の末にそうなっていったのです。私達も同様の道を辿っています。
私は「聖書」も、同様の意味合いで読み解いています。聖書のところどころに、「真の平和」とは何かを示唆する言葉が散らばっています。
最も、輪廻転生などない。人間は死んだらそれで終わりだという唯物思考の人達には、この話は通じませんが。
何度も言いますが、聖書の神髄は道徳でも倫理でも、俗に言う宗教でもありません。
キリスト教では輪廻転生を認めていません。聖書からも、それを肯定するような内容はほとんど見あたりません。
しかし、時の権力者なりがその意味を解せなかったのか、一部輪廻転生を示唆している表現が残っています。
マタイによる福音書第17章にある「山上の垂訓」です。
『彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。(中略)そのとき、弟子たちは、イエスがバプティスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。』
非常に神秘的な表現です。これをどう解釈するかは、やはりその人の意識体験の質と量としか言いようがありません。
最後に、オウム真理教に心酔した若者達を、十把一絡げに無知な宗教依存と決めつけるのは理解が足りないと思います。
確かに、そのような人達も多かったでしょう。
しかし、より高度に精神の発達した者達も、オウムという闇に取り込まれるという過ちを犯したということです。つまりは識別を誤ったのです。
「悪魔は99の真理を説く」
完全なる目覚めが無い限り、人間はどこまでも間違うものです。イエスの荒野でのサタンの誘惑もこれに符合するものです。
釈迦も出家の後、悟りの為に荒行をするという勘違いを為し、その結果生死を彷徨いました。
菩提樹の下で瞑そう中、釈迦もサタンの誘惑に遭ったとされています。(幻惑)
たとえ一瞬であれ、イエスや釈迦でさえ、その誘惑に揺れたということです。
そのような意味からも、オウム信者の全てを、唯物的単純な思考基準で判断することはできないということです。
これは メッセージ 412 (venture_2016 さん)への返信です.
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