>>南京が陥落した際に
投稿者: wmbyq010 投稿日時: 2004/08/13 21:20 投稿番号: [7907 / 66577]
しゃあない、文香ちゃんに嘲笑されそうだが・・・、
当時、事件はすぐに全世界に伝えられていた
日本軍が南京を占領したとき、南京に留まったのは、ニューヨーク・タイムズのダーディン(F. Tillman Durdin )、シカゴ・デイリー・ニュースのスティール(Archibold T. Steele )、ロイター社のスミス(L. C. Smith )、APのマグダニエル(Cyatesm Mcdaniel )の4名の新聞記者とパラマウント映画の撮影技師のメンケン(Arthur Mencken )であり、彼らは目撃した日本軍の残虐行為をいち早く報道した。
たとえば、12月15日スティールは南京から「日本軍の南京での虐殺、掠奪」を電報で通信し、12月19日ニューヨーク・タイムズ上海特派員アベンドは「日本軍、捕虜、一般市民、女性、子供を殺害」というニュースを打電した。12月18日以後にニューヨーク・タイムズ記者のダーディンは漢口から詳細な報道を打電した等々。
日本軍の南京での残虐行為の情報は、次第に世界に伝わっていった。
しかし、この数名の記者はみな12月15日に南京を離れ、日本軍の残虐行為のすべての過程を見てはいない。
しかし、彼らの目撃した最初の数日の状況だけで十分世間をぞっとさせるものであった。
ニューヨーク・タイムズのダーディンは、「まるではるか昔の野蛮な時代のできごとのように思われる」と形容して言った。それでは、すべての過程を目撃した外国人はいたのだろうか? いた。
日本軍の残虐行為期間の始めから終わりまで南京に留まった外国人には、アメリカ聖公会牧師のマギー(J. G. Magee )、金陵大学歴史学部教授ベイツ(M. S. Bates )、金陵大学社会部教授スマイス(L. C. Smythe )、ドイツ・ジーメンス洋行の支配人ラーべ(John H. D. Rabe )等である。
彼らは南京で国際委員会を組織し、難民区を成立させ、最も危険な時期であっても、撤退していなかった難民達が身を隠すことのできる場所を提供した。
日本軍の残虐行為のすべての期間をとおして、彼らは自分の目で目撃した日本軍の残虐行為を記録し、日本軍当局と日本領事館に報告と抗議を提出した。
これらの文献と彼らが上海にいる家族や友人たちに宛てて日本軍の残虐行為を書いた手紙を、1938年3月にイギリスのマンチェスター・ガーディアン特派員のティンパーリー(H. J. Timperley )が編集して本にし、『戦争とはなにか−−日本軍の中国での暴行』(1)として、ニューヨークとロンドンで出版した。
中国でも同年の7月に『外国人の目撃した日本軍の暴行』というタイトルで中国の翻訳本を発行し、日本語訳本も同年に中国で出版された。
1938年1月から2月にかけて、日本軍の南京での残虐行為に関する報道は全世界にひろく伝えられ、当時日本の植民地の朝鮮総督の南次郎でさえも、彼が新聞紙上で日本軍の南京での残虐行為の報道を見たことを、戦後の極東国際軍事法廷で承認している。
類似の資料は非常にたくさんある。こうした資料はすべて西側記者、伝教師、学者、商人が正義と人道的な立場に立っでおこなったニュース、記録、手紙、抗議と報告である。
当時、事件はすぐに全世界に伝えられていた
日本軍が南京を占領したとき、南京に留まったのは、ニューヨーク・タイムズのダーディン(F. Tillman Durdin )、シカゴ・デイリー・ニュースのスティール(Archibold T. Steele )、ロイター社のスミス(L. C. Smith )、APのマグダニエル(Cyatesm Mcdaniel )の4名の新聞記者とパラマウント映画の撮影技師のメンケン(Arthur Mencken )であり、彼らは目撃した日本軍の残虐行為をいち早く報道した。
たとえば、12月15日スティールは南京から「日本軍の南京での虐殺、掠奪」を電報で通信し、12月19日ニューヨーク・タイムズ上海特派員アベンドは「日本軍、捕虜、一般市民、女性、子供を殺害」というニュースを打電した。12月18日以後にニューヨーク・タイムズ記者のダーディンは漢口から詳細な報道を打電した等々。
日本軍の南京での残虐行為の情報は、次第に世界に伝わっていった。
しかし、この数名の記者はみな12月15日に南京を離れ、日本軍の残虐行為のすべての過程を見てはいない。
しかし、彼らの目撃した最初の数日の状況だけで十分世間をぞっとさせるものであった。
ニューヨーク・タイムズのダーディンは、「まるではるか昔の野蛮な時代のできごとのように思われる」と形容して言った。それでは、すべての過程を目撃した外国人はいたのだろうか? いた。
日本軍の残虐行為期間の始めから終わりまで南京に留まった外国人には、アメリカ聖公会牧師のマギー(J. G. Magee )、金陵大学歴史学部教授ベイツ(M. S. Bates )、金陵大学社会部教授スマイス(L. C. Smythe )、ドイツ・ジーメンス洋行の支配人ラーべ(John H. D. Rabe )等である。
彼らは南京で国際委員会を組織し、難民区を成立させ、最も危険な時期であっても、撤退していなかった難民達が身を隠すことのできる場所を提供した。
日本軍の残虐行為のすべての期間をとおして、彼らは自分の目で目撃した日本軍の残虐行為を記録し、日本軍当局と日本領事館に報告と抗議を提出した。
これらの文献と彼らが上海にいる家族や友人たちに宛てて日本軍の残虐行為を書いた手紙を、1938年3月にイギリスのマンチェスター・ガーディアン特派員のティンパーリー(H. J. Timperley )が編集して本にし、『戦争とはなにか−−日本軍の中国での暴行』(1)として、ニューヨークとロンドンで出版した。
中国でも同年の7月に『外国人の目撃した日本軍の暴行』というタイトルで中国の翻訳本を発行し、日本語訳本も同年に中国で出版された。
1938年1月から2月にかけて、日本軍の南京での残虐行為に関する報道は全世界にひろく伝えられ、当時日本の植民地の朝鮮総督の南次郎でさえも、彼が新聞紙上で日本軍の南京での残虐行為の報道を見たことを、戦後の極東国際軍事法廷で承認している。
類似の資料は非常にたくさんある。こうした資料はすべて西側記者、伝教師、学者、商人が正義と人道的な立場に立っでおこなったニュース、記録、手紙、抗議と報告である。
これは メッセージ 7901 (qa19582000 さん)への返信です.
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