Re: 崩壊
投稿者: horse_224 投稿日時: 2005/12/16 11:42 投稿番号: [48136 / 66577]
ある一定の環境(条件)下で、ある人は中国年内崩壊を確信した。
別の人は10年後と言った。
別の人は近い将来と言った。
その他の人は「そんな事有り得ない。」と言った。
同じ状況下で、ある人は南京虐殺の被害者を30万人と断言した。 別の人は40万人と言った。 別の人は3万人と言った。 その他の人は「日本国としての、組織的な虐殺などなかった。」と言った。
個人の批評レベルでは、基本的にどういった結果をそれぞれが主張しても構わない問題だと思いますし、特定の環境をどう感じるかは、各個人の感性や育ってきた環境にもよるので、たった一つの答えを導こうとする方が無理だと思います。
ましてや、中国崩壊などという、その言葉の定義そのものが、各人によって意見が分かれるような事を、「貴方が「絶対」だと思っている事を、私にも「絶対」と思えるように説明しなさい。」と言うことはおかしいと思います。 そういった意味で、「私の基準」は非常に的を射た説明だと思いますし、責任逃れなどではないと思います。
「年内」は年内であって、「12月31日」と言うのとは、若干ニュアンスが違ってくると思います。 「12月31日」は、余程の確定要素、例えば「郡の最高幹部に知り合いがいて、彼が12月31日に軍事クーデターを起こすと断言していた。」といったような情報を掴んでいない限り断言はできません。 しかし「年内」は、「それほど早い時期に、」という意味合いが強いと思います。
年内崩壊を言う人は、それなりに(つまりその人が根拠たると判断した)根拠を、既に何度も示していますし、一個人の考えとしては、それで十分だと思います。 その自分の考えを、「Aさんも私と同じ判断をしろ。」と命令しない限り、Aさんが「年内崩壊」と判断できるような根拠を示す必要は無いと思います。(自分がそう判断した根拠を示せば十分)
要は「トイレのドア」と同じレベルの話。 ある人は「野蛮だ。」と言いますが、私には「単なる習慣の違い。」としか思えない。 私に対して、「お前も、それを野蛮だと言え!」と言われない限り、勝手に思っていろと言う感じです。 日本の公衆浴場が、そういった習慣が無い国の人から見れば、とても信じがたい習慣であるのと同じ事です。
私は、「私にとってそう思えるような」崩壊は、今後も起こりえないと思っています。 軍事クーデターが起ころうと、合衆国になろうと、共産党が消えてなくなろうと、それを以って崩壊とは呼ばないと思っています。 何が起ころうと、そこに中国人がいる限り、中国は中国。 つまり、中国人が、自分を中国人と呼ばなくなった時が、中国の崩壊だと思います。(まず有り得ないと思いますが。)
南京についても、今ある条件下で、個人レベルでどう判断しようと勝手だと思います。 しかしこれには、一つ問題がある。 共産党(つまり一国の政府)が、記念館に巨大な文字で「300,000」と書き、それを正しい数字として教育の場で用いるところまでは、(個人的には気に入りませんが)内政ということで良しとしましょう。
しかし、それを世界遺産に登録しようとしたり、外国に対して喧伝しようとするのであれば、話は変わってきます。 つまり、全世界共通の史実として残すようにしたいのであれば、他国の基準においても十分納得されるような根拠、しかも「それによって何らかの影響を受ける第3国」も十分納得するような根拠を出す必要が生じてきます。 しかしこれは、基本的な「物の道理」であって、国としてそれをしていない国は沢山あると思います。
日本も含め、国としては、なかなか「物の道理」通りにはいかないのが現実のようですが、せめて個人レベルでは、「物の道理」通りにいくよう心掛けたいものです。
第三者に、自分が導き題した結果を強要するのであれば、説明責任が生じ、強要しないのであれば、相手を納得させるような説明をする責任は生じないと思います。(自分が納得していれば十分)
「貴方が満足のいく商品を提供します。」と「「私にとっては良い商品」を提供します。」の差かなあ。
うーむ、、、誰に書いているのやら、何を書いているのやら。。。。
同じ状況下で、ある人は南京虐殺の被害者を30万人と断言した。 別の人は40万人と言った。 別の人は3万人と言った。 その他の人は「日本国としての、組織的な虐殺などなかった。」と言った。
個人の批評レベルでは、基本的にどういった結果をそれぞれが主張しても構わない問題だと思いますし、特定の環境をどう感じるかは、各個人の感性や育ってきた環境にもよるので、たった一つの答えを導こうとする方が無理だと思います。
ましてや、中国崩壊などという、その言葉の定義そのものが、各人によって意見が分かれるような事を、「貴方が「絶対」だと思っている事を、私にも「絶対」と思えるように説明しなさい。」と言うことはおかしいと思います。 そういった意味で、「私の基準」は非常に的を射た説明だと思いますし、責任逃れなどではないと思います。
「年内」は年内であって、「12月31日」と言うのとは、若干ニュアンスが違ってくると思います。 「12月31日」は、余程の確定要素、例えば「郡の最高幹部に知り合いがいて、彼が12月31日に軍事クーデターを起こすと断言していた。」といったような情報を掴んでいない限り断言はできません。 しかし「年内」は、「それほど早い時期に、」という意味合いが強いと思います。
年内崩壊を言う人は、それなりに(つまりその人が根拠たると判断した)根拠を、既に何度も示していますし、一個人の考えとしては、それで十分だと思います。 その自分の考えを、「Aさんも私と同じ判断をしろ。」と命令しない限り、Aさんが「年内崩壊」と判断できるような根拠を示す必要は無いと思います。(自分がそう判断した根拠を示せば十分)
要は「トイレのドア」と同じレベルの話。 ある人は「野蛮だ。」と言いますが、私には「単なる習慣の違い。」としか思えない。 私に対して、「お前も、それを野蛮だと言え!」と言われない限り、勝手に思っていろと言う感じです。 日本の公衆浴場が、そういった習慣が無い国の人から見れば、とても信じがたい習慣であるのと同じ事です。
私は、「私にとってそう思えるような」崩壊は、今後も起こりえないと思っています。 軍事クーデターが起ころうと、合衆国になろうと、共産党が消えてなくなろうと、それを以って崩壊とは呼ばないと思っています。 何が起ころうと、そこに中国人がいる限り、中国は中国。 つまり、中国人が、自分を中国人と呼ばなくなった時が、中国の崩壊だと思います。(まず有り得ないと思いますが。)
南京についても、今ある条件下で、個人レベルでどう判断しようと勝手だと思います。 しかしこれには、一つ問題がある。 共産党(つまり一国の政府)が、記念館に巨大な文字で「300,000」と書き、それを正しい数字として教育の場で用いるところまでは、(個人的には気に入りませんが)内政ということで良しとしましょう。
しかし、それを世界遺産に登録しようとしたり、外国に対して喧伝しようとするのであれば、話は変わってきます。 つまり、全世界共通の史実として残すようにしたいのであれば、他国の基準においても十分納得されるような根拠、しかも「それによって何らかの影響を受ける第3国」も十分納得するような根拠を出す必要が生じてきます。 しかしこれは、基本的な「物の道理」であって、国としてそれをしていない国は沢山あると思います。
日本も含め、国としては、なかなか「物の道理」通りにはいかないのが現実のようですが、せめて個人レベルでは、「物の道理」通りにいくよう心掛けたいものです。
第三者に、自分が導き題した結果を強要するのであれば、説明責任が生じ、強要しないのであれば、相手を納得させるような説明をする責任は生じないと思います。(自分が納得していれば十分)
「貴方が満足のいく商品を提供します。」と「「私にとっては良い商品」を提供します。」の差かなあ。
うーむ、、、誰に書いているのやら、何を書いているのやら。。。。
これは メッセージ 48133 (aqualine2000jp さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019566/cf9q_1/48136.html