フランスと中国 2
投稿者: wmbyq010 投稿日時: 2004/01/28 20:49 投稿番号: [3973 / 66577]
国境のないパリ十三区(2)
シュイ・ラン
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<アジア系移民の歴史>
パリ十三区のチャイナタウンの形成は、アジア系移民の歴史と緊密に関係している。「Quartier Chinois」と呼ばれている地区は、中国系移民だけではなく、アジアの様々な国と地域から移住してきた移民によって現在の風貌になったのである。ここでアジア系移民の歴史を簡単に紹介しよう。
(一)中国系移民
中国系移民がフランスに来はじめるのは、十九世紀半ばであった。世界の政治・経済状況の変化にアヘン戦争の直接な影響が加えられ、ヨーロッパ諸国はアジアの植民地から労働者を受け入れるようになった。一方、戦争の被害を受け、新しいチャンスを求めるために祖国を後にした中国人も大勢いた。一八四〇年から一九〇〇年まで、約235.5万人が中国から他の国・地区に移住した。そのうちの約154.5万人がアジアに、約40万人がカリブ海地区と南アメリカ大陸に、約41万人がアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドとヨーロッパに移住した。
記録によれば、一九一一年に、283人の中国人がフランスにいた。一九〇〇年から第一次世界大戦までに、この三百人足らずの小さなコミュニティは自発的に組織されていた。第一次世界大戦による労働力の不足をきっかけに、中国労働者のフランスへの入国が許されるようになったが、終戦と同時に14万人の中国労働者が返された。フランスに残されのちほど移民として住み着いたのはわずか3千人ぐらいであった。
中国人留学生がフランスに来はじめるのは一九〇二年であった。最初は二十人しかいなかったが、彼らによって結成されたアナーキストのグループは、のちほどの中国革命運動に大きな影響を与える。一九二〇年に、中国政府が2千人もの留学生をフランスに派遣し、そのうちの400人は学業を終えてもフランスに残ることを選んだ。
一九二五年からの十年間、中国東南沿海地区、とくに浙江省出身の移民が多かった。それは、相次いた自然災害と、現地の主要収入源である水晶・翡翠加工工場の倒産に影響を受けた結果と考えられる。
一九四九年に、社会主義中国が成立し、中国本土からの移民は不可能となった。しかし、台湾や東南アジアからの中国系移民のフランス移住は絶えることがなかった。
一九五七年から、ベトナム南部の華僑がフランスに移住し始め、一九六〇年から一九七五年までの間、ベトナム戦争の影響もあって、華僑のフランス移住はピークを迎えた。
一九六四年に、中国とフランスは国交を結んだ。しばらくの間、フランスに親族がいる者だけが移住を許されたが、一九六六年に始まった文化大革命によって、中国本土からの移民は完全に不可能となった。
一九七五年から、東南アジア各地の反華運動の影響で、華僑のフランス移住は再びピークを迎えた。幾つもの国・地区を転々としてやっとフランスに辿り着くケースが多く、かなりの困難があったようだが、一九七五年から一九八二年まで、フランスへの移民の半数以上は中国系移民だと言われている。
一九八〇年代に入って、中国政府の対外開放政策によって、中国本土からの移民や留学生の数は年々増加してきている。彼らの加入によって、それまでに華僑を中心としたフランスの華人社会に新しい変化が現れる。
一九九〇年まで、ヨーロッパにいる60万人の中国系移民のうち、15万人はフランスで暮らしている。パリ十三区在住のアジア系移民のなか、中国系移民の数は十分の一しかないと言われている。しかし、実際の住民よりも、ほかの地区から働きにきたり、買い物にきたりする流動人口のほうがはるかに多いのである。
文・写真: 許 琅
シュイ・ラン
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<アジア系移民の歴史>
パリ十三区のチャイナタウンの形成は、アジア系移民の歴史と緊密に関係している。「Quartier Chinois」と呼ばれている地区は、中国系移民だけではなく、アジアの様々な国と地域から移住してきた移民によって現在の風貌になったのである。ここでアジア系移民の歴史を簡単に紹介しよう。
(一)中国系移民
中国系移民がフランスに来はじめるのは、十九世紀半ばであった。世界の政治・経済状況の変化にアヘン戦争の直接な影響が加えられ、ヨーロッパ諸国はアジアの植民地から労働者を受け入れるようになった。一方、戦争の被害を受け、新しいチャンスを求めるために祖国を後にした中国人も大勢いた。一八四〇年から一九〇〇年まで、約235.5万人が中国から他の国・地区に移住した。そのうちの約154.5万人がアジアに、約40万人がカリブ海地区と南アメリカ大陸に、約41万人がアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドとヨーロッパに移住した。
記録によれば、一九一一年に、283人の中国人がフランスにいた。一九〇〇年から第一次世界大戦までに、この三百人足らずの小さなコミュニティは自発的に組織されていた。第一次世界大戦による労働力の不足をきっかけに、中国労働者のフランスへの入国が許されるようになったが、終戦と同時に14万人の中国労働者が返された。フランスに残されのちほど移民として住み着いたのはわずか3千人ぐらいであった。
中国人留学生がフランスに来はじめるのは一九〇二年であった。最初は二十人しかいなかったが、彼らによって結成されたアナーキストのグループは、のちほどの中国革命運動に大きな影響を与える。一九二〇年に、中国政府が2千人もの留学生をフランスに派遣し、そのうちの400人は学業を終えてもフランスに残ることを選んだ。
一九二五年からの十年間、中国東南沿海地区、とくに浙江省出身の移民が多かった。それは、相次いた自然災害と、現地の主要収入源である水晶・翡翠加工工場の倒産に影響を受けた結果と考えられる。
一九四九年に、社会主義中国が成立し、中国本土からの移民は不可能となった。しかし、台湾や東南アジアからの中国系移民のフランス移住は絶えることがなかった。
一九五七年から、ベトナム南部の華僑がフランスに移住し始め、一九六〇年から一九七五年までの間、ベトナム戦争の影響もあって、華僑のフランス移住はピークを迎えた。
一九六四年に、中国とフランスは国交を結んだ。しばらくの間、フランスに親族がいる者だけが移住を許されたが、一九六六年に始まった文化大革命によって、中国本土からの移民は完全に不可能となった。
一九七五年から、東南アジア各地の反華運動の影響で、華僑のフランス移住は再びピークを迎えた。幾つもの国・地区を転々としてやっとフランスに辿り着くケースが多く、かなりの困難があったようだが、一九七五年から一九八二年まで、フランスへの移民の半数以上は中国系移民だと言われている。
一九八〇年代に入って、中国政府の対外開放政策によって、中国本土からの移民や留学生の数は年々増加してきている。彼らの加入によって、それまでに華僑を中心としたフランスの華人社会に新しい変化が現れる。
一九九〇年まで、ヨーロッパにいる60万人の中国系移民のうち、15万人はフランスで暮らしている。パリ十三区在住のアジア系移民のなか、中国系移民の数は十分の一しかないと言われている。しかし、実際の住民よりも、ほかの地区から働きにきたり、買い物にきたりする流動人口のほうがはるかに多いのである。
文・写真: 許 琅
これは メッセージ 3972 (wmbyq010 さん)への返信です.
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