サンスクリット語、Cinaを語源とする考察②
投稿者: qoraboy 投稿日時: 2005/02/02 16:21 投稿番号: [23139 / 66577]
日本の社会が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意味を込めて称し始めたのは、中日甲午戦争で清が敗れた時からである。一八九五年、清政府は余儀なく日本政府を相手に、主権を喪失し国が恥辱をこうむる馬関条約(日本では下関条約と言われている)を締結して、近代中国のこうむった恥辱は極点に達した。昔から中国のことを「上国」として尊敬してきた日本人は最初は驚き、続いて勝ったあとの陶酔に走り、町に出てデモ行進を行い、「日本は勝った。『支那』は負けた」と狂気のように叫んだ。そのときから、「支那」という言葉は日本では戦敗者に対する戦勝者の軽蔑的感情と心理を帯びたものになり、中性的な言葉からさげすむ意味合いの言葉に逐次変わっていった。十九世紀から第一次世界大戦までのオランダの辞書の中では「支那」に対する解釈は「支那すなわち愚かな中国人・精神的におかしい中国人のことである」となっていた。西洋のその他の辞書では「支那」に対する解釈も大同小異であった。
日本などの外国が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意を込めて呼称することは海外に在住する華僑の間で強い反感を買った。一部の留学生と華僑は日本の新聞社に投書して、日本人が「支那」という言葉を今後使わないで、その変わり「中国」を用いるよう要求した。これによって、中国の国名の呼称をめぐる論争が引き起こされた。一九〇八年、インドネシア在住の華僑はインドネシアを統治していたオランダ植民地当局に抗議を提出し、「支那」という侮辱的な呼称に反対した。中日二十一カ条条約締結、パリ講和条約調印、「五四」運動以降、中国国内では「支那」という蔑称に抗議するより激しいキャンペーンが巻き起こされた。辛亥革命後、中国政府は日本政府に照会し、中国を「支那」と呼ばないよう要求したが、日本側は拒否した。一九三〇年に、当時の中華民国中央政治会議では決議が採択され、当時の中国の国民政府外交部は日本政府に覚書を送った。決議にはこう述べられている。「中国政府中央政治会議は、日本政府とその国民が『支那』という言葉で中国を呼称し、そして日本政府の中国政府に宛てた公式公文にも中国が『大支那共和国』と呼称されているが、『支那』という言葉の意味はたいへん不明確で現在の中国となんらの関係もないため、今後『中国』を呼称する場合、その英語では必ずNational Republic of Chinaと書き、中国語では必ず大中華民国と書かなければならないことを外交部がすみやかに日本政府に要求するよう促す。もしも日本側の公文に『支那』いう文字を使われたなら、中国外交部は断然その受領を拒否することができる」。一九三〇年末から、日本政府の公文は全部「支那共和国」を「中華民国」に改められたが、社会一般の書面用語や話し言葉では依然として中国が「支那」と軽蔑的に呼称され、中国侵略の日本軍が「支那派遣軍」と称され、中国人が「支那人」と呼ばれていた。第二次世界大戦終結後、中国は戦勝国として代表団を東京に派遣し、一九四六年六月「命令」の形で日本の外務省に今後は「支那」という呼称を使ってはならないと通達した。同年六月六日、日本外務次官は各新聞社、出版社に、日本文部次官は七月三日各大学の学長宛に、「支那」という名称の使用を避けるようにという内容の公式公文を前後して配った。
戦後、特に新中国建国以後、「支那」は次第に死語となり、用いられなくなった。しかし、日本の社会において、今でもごく少数の右翼分子は依然として故意に中国を「支那」と呼び、ごく少数のものは飲食店のおそばのことを「支那ソバ」と言っている。日本で出版されている一部の地図にも中国の東中国海を「東シナ海」(「支那」の二文字を片仮名に変えただけ)と称していて、広範な華僑同胞の反感を買った。東京で料理店を経営しているある華僑は「支那」という呼称をなくすよう、数十年もたゆまぬ抗争を続けている。この華僑はお店のマッチ箱や箸袋に悲憤をこめて、謹しんで申し上げる、と次のように書き入れている。「……日本の人が中国を『支那』と呼ぶとき、私たちはどうしても日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起してしまうのです。……」と。ある人は怒りをこめて、中国を「支那」と呼ぶことは以前西洋人が日本人のことを「ジャップ」と呼び、東方の人たちが日本を「倭」と呼ぶのと同じではないか、どうして中国人民の感情を尊重しないのか、とただした。
日本などの外国が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意を込めて呼称することは海外に在住する華僑の間で強い反感を買った。一部の留学生と華僑は日本の新聞社に投書して、日本人が「支那」という言葉を今後使わないで、その変わり「中国」を用いるよう要求した。これによって、中国の国名の呼称をめぐる論争が引き起こされた。一九〇八年、インドネシア在住の華僑はインドネシアを統治していたオランダ植民地当局に抗議を提出し、「支那」という侮辱的な呼称に反対した。中日二十一カ条条約締結、パリ講和条約調印、「五四」運動以降、中国国内では「支那」という蔑称に抗議するより激しいキャンペーンが巻き起こされた。辛亥革命後、中国政府は日本政府に照会し、中国を「支那」と呼ばないよう要求したが、日本側は拒否した。一九三〇年に、当時の中華民国中央政治会議では決議が採択され、当時の中国の国民政府外交部は日本政府に覚書を送った。決議にはこう述べられている。「中国政府中央政治会議は、日本政府とその国民が『支那』という言葉で中国を呼称し、そして日本政府の中国政府に宛てた公式公文にも中国が『大支那共和国』と呼称されているが、『支那』という言葉の意味はたいへん不明確で現在の中国となんらの関係もないため、今後『中国』を呼称する場合、その英語では必ずNational Republic of Chinaと書き、中国語では必ず大中華民国と書かなければならないことを外交部がすみやかに日本政府に要求するよう促す。もしも日本側の公文に『支那』いう文字を使われたなら、中国外交部は断然その受領を拒否することができる」。一九三〇年末から、日本政府の公文は全部「支那共和国」を「中華民国」に改められたが、社会一般の書面用語や話し言葉では依然として中国が「支那」と軽蔑的に呼称され、中国侵略の日本軍が「支那派遣軍」と称され、中国人が「支那人」と呼ばれていた。第二次世界大戦終結後、中国は戦勝国として代表団を東京に派遣し、一九四六年六月「命令」の形で日本の外務省に今後は「支那」という呼称を使ってはならないと通達した。同年六月六日、日本外務次官は各新聞社、出版社に、日本文部次官は七月三日各大学の学長宛に、「支那」という名称の使用を避けるようにという内容の公式公文を前後して配った。
戦後、特に新中国建国以後、「支那」は次第に死語となり、用いられなくなった。しかし、日本の社会において、今でもごく少数の右翼分子は依然として故意に中国を「支那」と呼び、ごく少数のものは飲食店のおそばのことを「支那ソバ」と言っている。日本で出版されている一部の地図にも中国の東中国海を「東シナ海」(「支那」の二文字を片仮名に変えただけ)と称していて、広範な華僑同胞の反感を買った。東京で料理店を経営しているある華僑は「支那」という呼称をなくすよう、数十年もたゆまぬ抗争を続けている。この華僑はお店のマッチ箱や箸袋に悲憤をこめて、謹しんで申し上げる、と次のように書き入れている。「……日本の人が中国を『支那』と呼ぶとき、私たちはどうしても日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起してしまうのです。……」と。ある人は怒りをこめて、中国を「支那」と呼ぶことは以前西洋人が日本人のことを「ジャップ」と呼び、東方の人たちが日本を「倭」と呼ぶのと同じではないか、どうして中国人民の感情を尊重しないのか、とただした。
これは メッセージ 23138 (qoraboy さん)への返信です.
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